1863年、朝鮮王朝で26代王の高宗(コジョン)が即位した。彼はまだ11歳だったので、父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が執権となって、実際の政治を動かすようになった。 開国を迫る日本 1865年、興宣大院君は景福宮(キョンボックン)の再建に乗り出した。景福宮は1395年から1592年まで朝鮮王…
1623年、光海君(クァンヘグン)を王宮から追放するクーデターが成功し、主導した綾陽君(ヌンヤングン)が16代王・仁祖(インジョ)として即位した。仁穆(インモク)王后と貞明公主も幽閉を解かれ、完全に名誉が回復された。 婚期をのがしていた王女 20歳になっていた貞明公主。幽閉されていたた…
仁穆王后と貞明公主が幽閉された西宮(ソグン)は現在の徳寿宮(トクスグン)。写真は正殿の前にある中和門(チュンファムン) 1623年、光海君(クァンヘグン)を追放するクーデターが成功し、幽閉を解かれた仁穆(インモク)王后と貞明公主。2人の地獄のような監禁生活は10年で終わった。このとき、…
ソウル中心部にある世宗の銅像 朝鮮半島では、15世紀になっても公式に採用されている文字は漢字だけで、人々が話す言葉を正確に表記することは難しかった。加えて、教育を受ける機会があまりない庶民は、難しい漢字を使いこなすことがなかなかできなかった。つまり、漢字を熟知する特権階級だけが文字を縦…
永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺された上に、西宮(ソグン)に幽閉された仁穆(インモク)王后と貞明公主。悲しみのどん底に突き落とされた2人にとって、ついに恨みを晴らす日がやってきた。光海君(クァンヘグン)の王位に対するクーデターが起こったのである。 仁穆王后と貞明公主が幽閉された西宮(ソグン)は今の徳…
雨森芳洲の肖像画 1607年に始まった江戸時代の朝鮮通信使。17世紀には合計で7回も朝鮮通信使が来日している。徳川幕府の創設者の家康と基盤を磐石にした家光。この2人の大物将軍が朝鮮王朝との善隣関係に力を注いだことが17世紀の両国の蜜月につながったのである。 新井白石の改革 朝鮮通信使の初来日から10…
貞明公主の自筆の書 15代王・光海君(クァンヘグン)によって最愛の弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺された貞明公主。彼女自身も王女から庶民に格下げとなり、母の仁穆(インモク)王后と一緒に西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されてしまった。 西宮と呼ばれた由来…
14代王・宣祖(ソンジョ)と仁穆(インモク)王后を両親にして1603年に生まれた貞明公主。弟は3歳下の永昌大君(ヨンチャンデグン)だった。宣祖が1608年に亡くなり、異母兄の光海君(クァンヘグン)が15代王になったのだが……。 年が離れた兄弟 光海君は1575年の生まれである。 貞明公…
公主(コンジュ)というのは、王の正室が産んだ王女のことだ(王の側室が産んだ王女は翁主〔オンジュ〕と言う)。数多くの公主の中でも、貞明公主は歴史的に有名だ。どんな女性だったのだろうか。彼女の波瀾万丈の人生を追ってみよう。 側室から生まれた初めての王 貞明公主の父は、14代王・宣祖(ソンジョ)である。 …
1598年11月、最後に島津軍がかろうじて対馬にたどりつき、豊臣軍は完全に日本に引き揚げてきた。7年近くにわたった戦乱の影響はあまりにも大きかった。朝鮮半島は荒廃し、多くの人命が奪われた。 窮地に陥った対馬 戦乱の中で捕虜として日本に連れていかれた人も相当数にのぼった。そのほとんどが農民だった。日本…