日本でも大ヒットしたドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』。その主人公であるチャングムが実在する人物というのは、韓国時代劇が好きなファンにはよく知られる事実だ。しかし、史実でのチャングム(長今)は、朝鮮王朝の公的な歴史書「朝鮮王朝実録」に10カ所あまり記述が残されているだけの謎多き人物だ。ドラマとは違う史実のチャングムの素顔に迫る……。
医女が誕生した理由
医女・チャングムが歴史書に登場したのは、11代王・中宗(チュンジョン)の時代になってからだ。
当時の朝鮮王朝の王宮には、政治に携わる高官から王の身の回りの世話をする宮女まで多くの人が働いていた。中でも専門的な知識が必要だったのが医官である。医官は基本的に男性が務めていたが、時代と共に女性の医官=医女の必要性が高まってきた
なぜなら、当時の社会では、女性が夫以外の男性に肌を見せることは大変な侮辱行為とされていたため、女性はたとえ病気になろうとも医官の診察を拒む場合が多かったのだ。
「このままでは、女性たちの病気がいっこうに治らない」と、頭を悩ませたのが3代王・太宗(テジョン)である。しかし、名門出身の女性たちは、誰も医女になりたがらなかった。仕方がなく、太宗は最下層の身分である奴婢(ヌヒ)から医女を選ぶことにした。
その結果、医女の身分や扱いは低く見られがちだった。
特に、朝鮮王朝27人の王の中でも最悪の暴君と呼ばれる10代王・燕山君(ヨンサングン)は、酒席に医女を呼んで酌を強要することもあった。
こうした習慣を憂いたのが11代王・中宗である。彼は医女を必要以上に低く見る風潮を禁止しようと動いた。そんな中宗の努力の結果が、医女・チャングムの登場に繋がった。
「朝鮮王朝実録」に書かれているチャングムに関する記述は10カ所ほどあるが、その中に、彼女の人物像を想像させるようなものはない。つまり、チャングムがどのような容姿で、どんな性格だったのかわからないのだ。
これを逆手に取ったのが、韓国時代劇の巨匠イ・ビョンフン監督だ。彼はドラマを制作する過程で、チャングムを自由に扱うことができた。こうして誕生したのが、物語前半部にある水刺間(スラッカン)で働く料理人のチャングムだ。つまり、彼女が医女になる前は料理人だったという設定は完全なフィクションなのだ。
朝鮮王朝時代に実在した医女チャングムの生涯を波乱万丈に描いた長編時代劇。どんな困難を前にしても、ひたむきに努力して乗り越える主人公チャングムのけなげな姿は多くの視聴者の涙を誘った。
チャングムは、王家の侍医として多くの功績を残しているが、失敗することもあった。彼女の失敗は、1515年3月21日の記述に記されている。
「長今は功績があったので褒美をもらうことができるのだが、重要な問題が起こって、未だに褒美をもらえないでいる」
記述にある“重要な問題”とは、中宗の正室が産後の経過が悪く亡くなってしまったことだ。
当時、王族を担当する侍医は、王族が亡くなった場合、どんな小さな失敗でも重い罰が与えられた。もちろんチャングムも例外ではない。
彼女が犯した失敗とは、王妃の産後に服を着替えさせなければならないのを怠ったことだ。
当然、チャングムにも重い刑罰が与えられるはずだった。
しかし、「朝鮮王朝実録」を見る限り、チャングムはその後も医女としての活動を続けている。責任を取らされなかった理由については、ハッキリとしていない。
また、以降の記述には、チャングムが褒美を授かったり、名前に最高の賛辞である「大」をつけた大長今(テジャングム)として表記されることもあった。それほど、中宗はチャングムのことをかなり信頼していたのだ。それは、晩年の中宗が残した「余の病状はチャングムだけが知っている」という記述からも明らかだ。
中宗の死後、チャングムに関する記述を「朝鮮王朝実録」に見ることはない。歴史に名を残した医女の最期は誰にもわからないのだ……。
文=康 大地(コウ ダイチ)
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コラム提供:チャレソ