歴史的な名は東明聖王
松譲王の言葉に朱蒙は怒り、「勝負して決めよう」と迫った。2人は言葉で戦い、弓の実力でも競った。松譲王がかなうわけがなかった。
しばらくすると、松譲王が領土を持って投降してきた。朱蒙はこれを認めて、松譲王を配下にした。
これを手始めに、朱蒙は次々と周辺国を手中におさめ、国を大きくした。そして、紀元前19年に39歳で世を去った。諡(おくりな)は「東明(トンミョン)」。歴史的にも東明聖王という呼び方が一般的になっている。
一方、百済(ペクチェ)の始祖・温祚王(オンジョワン)の父は朱蒙であったと言われているが、『新・国史事典』は次のように書いている。
「一般的には、340年代に登場した(百済)13代の近肖古王(クンチョゴワン)のときから国家の体制が整ったと見られており、それ以前の事実は信憑性が少ない」
果たして、温祚は本当に朱蒙の息子だったのか。
高句麗からはるかに南下して新しい国家を築いた、という百済の建国秘話にはロマンの香りが大いにするのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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コラム提供:チャレソ