後継者として指名されたのは
壬辰倭乱によって朝鮮王朝は大きな被害を受けて土地は荒廃してしまい、政治も混乱した。中でも一番問題になったのが、宣祖の後継者問題だ。最初の正室である懿仁(ウィイン)王后は、病弱で息子を産むことができなかった。そのため、後継者は側室が産んだ息子から選ばなければならなくなった。
候補にあがったのは、長男の臨海君(イメグン)と二男の光海君(クァンヘグン)の2人だ。本来なら臨海君が世子(セジャ)に指名されるのが普通だが、粗暴な性格だった彼に対する周りの評判はよくなかった。さらに、臨海君は壬辰倭乱の際に、豊臣軍の武将である加藤清正の捕虜にされるという屈辱により、釈放後も乱れた生活を送っていた。一方の光海君は、壬辰倭乱の際に指導者の1人として豊臣軍と戦ったという実績を残し、高い評価を受けていた。
2人の評価を見れば、どちらが後継者に相応しいかは一目瞭然で、世子に選ばれたのは二男の光海君だった。しかし、そんな彼の世子としての立場を危うくすることが起きた。最初の正室である懿仁王后が1600年に亡くなった後、宣祖は仁穆王后を二番目の王妃として迎えた。そして、1606年に彼女が永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだ。念願の正室から息子が生まれたことを、宣祖は誰よりも喜んだ。
宣祖は、「ぜひ永昌大君を世子にしたい」と強く思うようになった。なぜなら、宣祖自身が庶子として生まれて苦労したからだ。しかし、すでに光海君を世子に指名していたため、変更するには相応の手続きが必要だが、宣祖にはそれを行なう時間が残されていなかった。結局、彼は自分の望みを叶えることはできず1608年に世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)
コラム提供:チャレソ