「コラム」日本と韓国の歴史を振り返る/第27回「日韓併合」

運命の1910年8月22日
20世紀に入ると、日本とロシアの対立が非常に激しくなった。もはや両国の軍事衝突は避けられない情勢となり、1904年2月に日露戦争が始まった。
朝鮮王朝は中立を宣言したのだが、日本は朝鮮王朝の意向を無視し、軍事力を背景に朝鮮半島の全土を支配下に置いた。
日本は1904年8月に第1次日韓協約を強要。朝鮮王朝は外交に関して日本と事前に協議することを求められた。もちろん、朝鮮王朝が拒めるはずもない。
1905年9月には、日露講和条約が調印されてロシアは朝鮮半島から完全に追い出された。すかさず日本は11月に第2次日韓協約を調印。日本は統監府を設置し、朝鮮王朝は外交権を奪われた。
もはや亡国は避けられない情勢となった。起死回生を期して、高宗は1907年6月にオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の干渉に対する不当性を訴える密使を送った。しかし、すでに朝鮮王朝が外交権を持たないことで失敗に終わり、高宗は日本の圧力によって7月19日に退位させられた。代わって27代王に就いたのは、高宗の息子の純宗(スンジョン)だった。


7月24日には第3次日韓協約が締結され、日本は朝鮮王朝の内政を掌握し、軍隊を解散させた。そうした政策を積極的に進めたのが韓国統監を務めた伊藤博文であったが、彼は1909年10月に安重根(アン・ジュングン)によって暗殺された。
結局、1910年8月22日に「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。
その条文には「韓国皇帝がすべての統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲渡する」と書かれている。
この条約は8月29日に公布されたが、それによって518年続いた朝鮮王朝が滅んだ。統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、日本の植民地統治が始まった。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)
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2021.05.20