【時代劇が面白い】英祖と思悼世子の親子関係の正体3「父と息子の間に生まれた確執」


数年の間、景宗毒殺の噂に悩まされ続けた英祖だが、その苦境を脱した後は徐々に王権を安定させていった。英祖の最初の妻は貞聖(チョンソン)王后だが、2人の間に子供はいなかった。英祖の最初の子供は側室から生まれた孝章(ヒョジャン)だが、9歳という若さで病死してしまう。それからしばらくは、子供がまったく生まれないという状況が続いた。

 

父子の間に生まれた確執
自分の後継ぎとなる息子がいないことを気にしていた英祖だったが、1735年に側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が二男の荘献(チャンホン)を産んだ。
生まれつき聡明だった荘献は、早くから世子(セジャ)に指名され、14歳のときに政治の一部を任された。しかし、荘献は老論派に批判的だったために、危機を感じた老論派は様々な邪魔をしていた。何をしたのかというと、父親である英祖に荘献の悪評を意図的に伝えたのだ。
それを聞いた英祖は、心配になって荘献を呼んでは叱責することを繰り返したが、そのことが原因で父子の間に確執が生まれてしまった。しかし、荘献も反省しなかったわけではない。彼は、世子の立場を自覚した上で22歳のときに承政院(スンジョンウォン/王命の出納を担当する役所)に反省文を出している。
反省文を見た英祖はとても喜んでいたのだが、あまりにも猜疑心が強すぎたのか次第に「この反省文には心がこもっていない」と思うようになった。

英祖に呼び出された荘献は、父親が期待していような弁明をすることができなかったうえに泣いてばかりいた。それを見た重臣が「王に謁見(えっけん)せよという命を受けて恐怖に震えているゆえ、わかっていることでもお答えできないようです」と荘献をかばう発言をしたが、英祖は相変わらず厳しい目を向けていた。
結果的に、緊張が極限にまで達した荘献は、その場で気を失ってしまう。すぐに医官が診察を行なうが回復しなかったため、荘献は駕籠(かご)に乗せられて帰宅した。この出来事が親子の仲をさらに悪くしてしまった。
1762年5月22日、この日には王宮で荘献をめぐる大きな混乱が起きた。なんと世子の住む東宮で働く羅景彦(ナ・ギョンオン)が「世子が謀叛をたくらんでいる」と訴えたのである。謀叛は王宮に大混乱を巻き起こす出来事なのに、その首謀者が世子の荘献ともなれば、政権の中枢にいる高官たちが驚きを隠せないのは当然のことだ。
重臣たちや王の前に出された羅景彦は、荘献の問題行動が書かれた書状を取り出した。
そこに書かれていることが信じられなかった英祖は、息子に直接問いただすことにした。英祖は、領議政(ヨンイジョン)の洪鳳漢(ホン・ボンハン)に調査を命じた。その洪鳳漢は実は荘献の岳父であった。彼は「東宮がこの告発を聞いたら平常心を保てないと思いますので、静かに行ないたいと思います」と述べて、英祖もそれを認めた。

洪鳳漢は荘献のもとへ行き、謀反の首謀者として告発されていることを伝えた。それを聞いた荘献は慌てて英祖のもとにやってきて前庭で平伏した。しかし、英祖は戸を閉めて、なかなか姿を現さなかった。彼は何とか怒りを鎮めようとしたが、結局は抑えることができず、息子を怒鳴りつけた。
荘献は、側室を殺害したことや放蕩を繰り返していたことが本当かどうかを問われるが、ただ地面に伏すことしかできなかった。さらに、英祖は「もし、羅景彦がいなかったら余は今回のことを知ることができなかった。こんなことをして国が滅びないとでも思ったのか」と言った。
英祖の叱責を受けた荘献は、真相を聞くために羅景彦に会わせてほしいと願い出るが、英祖は「すでに自分たちが問いただしている」と言って会わせなかった。そうしたうえで、息子に立ち去るように言った。
その後、洪鳳漢は王に羅景彦を処罰するように願い出た。なぜなら、羅景彦は荘献に仕える身でありながら、自分の主人を告発したからだ。しかし、英祖は息子の悪事を教えてくれた羅景彦を処罰しようとは思っていなかった。

その後、羅景彦は荘献を告発したことで処罰してほしいと、自ら申し出た。周りの重臣たちも羅景彦の死を求める意見を次々に出した。それを聞いた英祖は「温情を掛けてはいけない」と思うようになり、羅景彦を斬首に処した。
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2021.03.15