景宗毒殺説とは?
いったい景宗毒殺説とはどういったものなのだろうか。当時のことを振り返ってみよう。景宗の体調が悪化したのは1724年8月20日だった。景宗は、胸とお腹に激しい痛みを感じて医師の診察を受けた。当初、原因はケジャン(蟹〔カニ〕を醤油〔しょうゆ〕漬けにした料理)と柿を食べたことによる食あたりだと思われた。
医官に処方してもらった薬を飲んで安静にしていた景宗だが、さらに病状は悪化する。22日には腹痛と下痢がひどくなり、その下痢は23日になっても治まらず、身体は衰弱していった。24日になると病状は深刻になり、医官があらゆる手を尽くしたが、景宗は回復することなく25日に亡くなった。
彼の死因は、蟹と柿の食べ合わせによるものだとされたが、それだけで死に至るとは思えない。英祖が王として即位した後に、「蟹に毒が入っていたのではないか」という噂が流れた。実際に、英祖は医官が反対するのも聞かずに景宗に蟹と柿を食べさせている。
さらに、景宗の病状が深刻な状態になったとき、英祖は「人参(にんじん)の煎じ薬を処方しろ」と意見したことで医官と対立している。結果的に、彼は自分の意見を押し通して強行させたが、その夜に景宗が亡くなった。
つまり、英祖は医官の言葉に耳を貸さなかったことで自分が疑われる原因を作ってしまったのである。
その噂は長く消えることなく、英祖を悩ませた。老論派と対立している少論派は、噂を何度も蒸し返すことで英祖に揺さぶりをかけたり、王権の交代を狙った反乱も起こしたりして、英祖は薄氷を踏むような立場まで追い込まれてしまった。
(第3回に続く)
文=康 大地〔コウ ダイチ〕
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