貧しい家庭に生まれた張禧嬪(チャン・ヒビン)は、女官として王宮で働けるようになった。美しい容姿を持つ彼女を一目見た19代王の粛宗(スクチョン)は、やがて彼女を自分の側室にした。そこから、張禧嬪は一気に頂上まで駆け登っていった。
王妃となった張禧嬪
当時、粛宗には正妻の他に側室も多かったが、いつになっても息子が生まれなかった。後継ぎに恵まれない粛宗はあせっていたのだが、1688年に張禧嬪が粛宗の息子を出産した。
粛宗にとって、初めての息子を得た喜びはひとしおであり、彼は張禧嬪との間に生まれた息子を後継者に指名した。
王の寵愛を一身に集めた張禧嬪は、粛宗の気持を巧みに誘導し、1689年には正室だった仁顕(インヒョン)王后を庶民に格下げすることに成功したこうして張禧嬪は粛宗の正室となった。つまり、王妃に昇格したのだ。
張禧嬪は、日に日に増長していく。彼女は自分の一族を高官に迎えてやりたい放題だった。
しかし、張禧嬪の時代は長く続かなかった。粛宗は新たに側室になった淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)に愛情を注ぐようになったのだ。
張禧嬪は危機感を抱き、淑嬪・崔氏に陰湿な嫌がらせを始めた。
粛宗は、傲慢に振る舞う張禧嬪に不信感を抱くようになった。そこで彼は、庶民に降格していた仁顕王后を復位させて、張禧嬪を正室から降格させた。1694年のことだ。
この決定に憤った張禧嬪は、自分の侍女たちに命じて仁顕王后の寝室を見張らせた。さらには、仁顕王后を呪うための儀式も続けた1701年、仁顕王后は病に倒れて亡くなってしまう。張禧嬪は王妃に返り咲けると思ったのだが、彼女が仁顕王后を呪い殺すための儀式をしていたことが、淑嬪・崔氏によって粛宗に伝えられた
怒った粛宗は、張禧嬪の弁解に耳を傾けず死罪を宣告した。
こうして、己の野心のために宮中を混乱させた張禧嬪は、世を恨みながら息を引き取っていった。
せめてもの救いは、張禧嬪が残した息子が後に20代王・景宗(キョンジョン)になったことかもしれない。
コラム提供:チャレソ
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