【時代劇が面白い】朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第3章「悪政」編

成人した成宗は数々の政治的業績を残したが、問題を起こしたのが二番目の正妻となった斉献(チェホン)王后だった。彼女は後宮を追い落とす策略を露骨にやりすぎて、成宗の信頼を失った。

 

暴君の悪政
成宗の顔をひっかいて傷を負わせるという騒動を起こした斉献王后は、1479年に廃妃となってしまった。朝鮮王朝の王妃で廃妃となったのは彼女が最初だった。
さらに斉献王后は、彼女を嫌う仁粋(インス)大妃(成宗の母)の意向もあって死罪となってしまった。このことが後に大きな悲劇を生む下地になった。なぜなら、成宗と斉献王后との間に生まれた息子が1494年に10代王・燕山君(ヨンサングン)として即位したからだ。

燕山君は実母の死に関係した人たちをことごとく惨殺した。すでに死んでいる人の場合は墓をあばいて首をはねた。しかも、祖母であった仁粋大妃にも暴力をふるった。それがもとで彼女は1504年に67歳で亡くなった。

燕山君は政治を省(かえり)みず、側室の張緑水(チャン・ノクス)と一緒に酒池肉林を繰り返し、王朝の財政を悪化させた。庶民の怒りは頂点に達し、燕山君はクーデターで1506年に王位を追われ、張緑水は斬首された。結局、燕山君は江華島(カンファド)に流刑となり、まもなく30歳で死去した。
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朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第1章「建国」編

朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第2章「激動」編

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2020.12.21