【時代劇が面白い】絶世の美女と称された敬恵王女

ドラマ『王女の男』で、女優のホン・スヒョンが演じたことで広く知られるようになった敬恵(キョンヘ)王女。ドラマの中で描かれた彼女の境遇は、天国から地獄に落ちたような感じだったが、実際はどんな人生を歩んだのだろうか。

姉として端宗を見守る

敬恵王女が生まれた1435年は、4代王・世宗(セジョン)が統治する時代で、父親は王の後継者に指名されていた珦(ヒャン)だ。母親の顕徳(ヒョンドク)王后は、後に6代王・端宗(タンジョン)となる息子の弘暐(ホンウィ)を産むが、衰弱して出産から数日後に世を去ってしまう。
1450年、敬恵王女が15歳のときに父親の珦が5代王・文定(ムンジョン)として即位するが、もともと病弱で床に伏せることが多かった。心配していた敬恵王女は、「ずっと父の近くにいてあげたい」と思うが、王族の女性は10代半ばで嫁がなければいけないという慣例があった。
敬恵王女もその慣例に従って、名家出身の鄭悰(チョン・ジョン)の妻となる。当時は、結婚した王女は王宮を出なければならないのだが、娘をとても可愛がっていた文宗は、王宮の近くに立派な屋敷を建ててあげた。敬恵王女と鄭悰の夫婦はそこに住むことになったのだ。

1452年に文宗が世を去り、息子の弘暐が後を継いで6代王・端宗となった。彼はまだ11歳と幼かった。本来なら王の母か祖母が代理で政治を行なうのだが、すでにどちらもいなかったため、文宗の遺命を受けた忠臣たちが端宗を支えた。しかし、姉への依存心が強かった端宗は、敬恵王女の屋敷にひんぱんに通うようになった。
1453年に端宗の叔父である首陽大君(スヤンデグン)がクーデターを起こして、端宗を補佐する高官たちを次々と殺害していった。
その際に敬恵王女の夫である鄭悰も危険分子と見なされた。首陽大君は彼を反抗した罪で、江原道(カンウォンド)の寧月(ヨンウォル)という場所に流してしまう。その後、首陽大君は端宗から王の座を奪うかたちで、1455年に7代王・世祖(セジョ)として即位した。
敬恵王女は、夫の鄭悰を流罪にしただけでなく、弟の端宗から王位を強奪した世祖を激しく憎んだ。
抗議の意味で自分が病床に伏せていることを明かすと、彼女の動向を気にしていた世祖は、敬恵王女を見舞うことを理由に鄭悰を流罪先から呼び戻した。

しかし、世祖の側近たちから鄭悰の罪を解いたことに反対の声があがったので、鄭悰は最初の寧月よりも都に近い水原(スウォン)に流されることになった。その際に妻である敬恵王女が驚きの行動に出る。なんと、王族である彼女自身が夫と一緒に配流地の水原へ赴こうとしたのだ。王族の女性がその立場に身を置くのは今までにないことだった鄭悰に対する敬恵王女の愛は、相当なものだったと言えるだろう。
1456年、端宗の復位を願う高官たちが世祖の命を狙って「端宗復位騒動」を起こした。その騒ぎの中で鄭悰に対する処罰が厳しくなり、彼は全羅道(チョルラド)の光州(クァンジュ)に流されることになった。その際も敬恵王女は夫についていくことを望んだ。それを聞き入れた世祖は、彼女のために輿(こし)まで用意したのである。
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2020.12.11