19代王の粛宗(スクチョン)は1661年に生まれた。父は18代王の顕宗(ヒョンジョン)であり、母は明聖(ミョンソン)王后だった。彼は13歳だった1674年に国王となって統治を始めた。
張禧嬪を寵愛
粛宗は朝鮮王朝の27人の国王の中で一番多くの王妃を持った男だ。
最初の正室は仁敬(インギョン)王后だった。彼女は3人の王女を産んだのだが、1680年に19歳で亡くなった。
二番目の正室となったのが仁顕(イニョン)王后で、彼女には子供ができなかった。
王位を継承できる後継ぎを熱望していた粛宗は焦っていた。そんな彼の目にとまったのが張禧嬪(チャン・ヒビン)であった。彼女は側室になった後の1688年に、粛宗の長男を産んだ。
喜んだ粛宗は長男をすぐに元子(ウォンジャ)にしようとした。国王の正式な後継ぎは世子だが、5歳くらいで指名されるのが原則だった。生まれたばかりでは、すぐに世子にできないのだ。
その世子の筆頭候補を意味するのが元子だ。粛宗としては長男を元子にしておいて、5歳になったら世子にする腹積もりだった。
しかし、高官たちが大反対した。正室の仁顕王后が後継ぎを産む可能性があったからだ。それでも粛宗は強硬だった。1689年1月10日に高官たちを集めて宣言した。
「余が後継者を決められないので民心が落ちつかない。今日こそ決めたい。異議をとなえる者は官職を返上して立ち去れ!」
強い口調で粛宗が言っても、高官の中から反対論が噴出した。
「王妃はまだお若いです。元子の決定を急いではいけません」
粛宗は激怒した。
「余はもうすぐ30歳だ。後継ぎがいないので本当に心配していたが、ようやく王子が生まれた。なぜ元子に決めるのが早すぎるというのか。すでに余が決めたことだ」
粛宗は強引に、生まれたばかりの王子を元子に決定した。
元子の母となった張禧嬪。彼女の発言力が一気に強くなった。
その3カ月後、粛宗が周囲を仰天させる発言をした。
「王妃は妬みが強すぎる。余は閉口するばかりだ」
こう語った粛宗は仁顕王后の廃妃を宣言した。もちろん、多くの高官たちが反対したが、粛宗は自らの決定を押し通した。
こうして仁顕王后は宮中から追放されて実家に帰された。
(中編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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