【時代劇が面白い】朝鮮通信使の来日時に貢献した雨森芳洲/康熙奉の王朝快談15

雨森芳洲の肖像画

朝鮮通信使は、江戸時代に12回来日している。第1回目の来日は1607年。それ以来、徳川将軍の代替わりの慶事によく日本を訪れた。一行の規模は400~500人。釜山(プサン)を出航してから船で瀬戸内海を通って大阪に上陸し、淀川を上って京都に着いてからは陸路で江戸をめざした。

雨森芳洲の功績
朝鮮通信使が来日すると、沿道では珍しい外交使節を見ようと、大勢の人たちが出迎えた。
その道中では、盛んに文化交流も行なわれた。つまり、朝鮮通信使は文化使節でもあったのだ。
また、江戸幕府は長崎で限定的にオランダや中国と貿易だけを行なっていたが、朝鮮王朝とは正式な外交関係を結んで国書も交換していた。そういう意味では、少なくとも「江戸時代は鎖国」ではなかった。その証明が朝鮮通信使であった。
とにかく、朝鮮王朝と江戸幕府は仲が良かった。この時代の両国は文字通りの「善隣友好関係」を維持していたのである。その際に日本側で尽力したのが通訳として対馬藩に仕えた雨森芳洲(1668~1755年)だ。彼の文章を読んでいると、次のような記述があった。
「(日本で朝鮮通信使の一行に向かって)王は庭に何を植えておられるのかと尋ねた人がいました。『麦です』という答えを聞くと、『粗末な国ですなあ』と言って笑いました。実際に王は花を植えておられるのでしょうが、(答えた人は)『農業を大切に思うことが古来から君主の美徳』と思って麦の名を出したのです。そうすれば、日本の人に感じ入っていただけると思った次第ですが、かえって嘲笑を受けてしまいました」

こう書いたあと、雨森芳洲は次のように結んでいる。
「なにごとも、(相手の状況を知る)心得を持つことが大切でしょう」
雨森芳洲が、江戸幕府と朝鮮王朝の間に入って一番重視したのが「誠信」である。雨森芳洲はその意味をこう説明している。
「誠信とは『実の心』であり、互いにあざむかず争わず真実をもって交わること」
雨森芳洲はまさに、お互いの違いを認めあい、そのうえで「誠信の交わり」を実行した人であった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
提供:チャレソ
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2020.10.29