暗黒の20年
6月29日、仁宗の病床の周囲が緊迫しているとき、文定王后がまたもや外出を言いだした。これは、さらに高官たちを揺さぶろうとする意図なのか。宮中は混乱するばかりだった。
7月1日の早朝、ついに仁宗は息を引き取った。その日、人々は路上に跪いて慟哭し、まるで自分の父母を失ったかのように悲しんだ。
これほど民から慕われていた王なのに、文定王后は仁宗の葬儀を冷遇した。
「王位に1年も就いていなかったので、慣例を踏襲しなくてもいい」
葬儀は簡略化され、服喪期間は短くなり、陵墓も格下げとなった。文定王后は仁宗の名誉を著しく傷つけたのだ。
結局、仁宗の次に慶源大君が即位して13代王・明宗(ミョンジョン)になった。
野史(民間に伝承される歴史書)には、文定王后の悪行を記したものもある。
それによると、仁宗の死因は毒殺で、文定王后が渡した餅に毒が盛ってあったという。それだけではない。仁宗は下痢の症状がひどかったのに、文定王后のさしがねで、仁宗の食卓には連日のように鶏の粥が出されたという。
ひどい下痢に鶏の粥はふさわしくないのに、文定王后はあえてそれを仁宗に食べさせて、さらに症状を悪化させたのである。
即位した明宗はまだ11歳と幼かったので、政治の実権はすべて文定王后が握った。彼女は政権の要職を身内で固めて、王朝そのものを強欲に牛耳った。
16世紀なかばの朝鮮半島は、凶作が多くて人々の生活は困窮した。それにもかかわらず、文定王后は有効な対策を立てず、民を見捨てた。そういう意味でも、文定王后が世を去る1565年までの20年間は、朝鮮王朝が暗黒の時代だったといえる。それもすべて、仁宗を毒殺したことが端緒になったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:チャレソ