退位を余儀なくされた国王
6人目は、1608年に即位した15代王・光海君(クァンヘグン)である。
彼は巧みな外交戦術や減税政策などで政治的には評価されているのだが、王位争いの過程で兄や弟を死に至らしめている。それがクーデター軍に大義名分を与える結果になった。光海君は1623年に王宮を追放され、最後は流罪先の済州島(チェジュド)で1641年に世を去った。王位を追われた後に18年も生きられた、というのは一体何を暗示しているのだろうか。
時代は下って1907年。26代王・高宗(コジョン)が退位に追い込まれている。すでに朝鮮半島は日本の影響下にあった。高宗はオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送って、日本の不当な干渉を世界に訴えようとしたのだが、これが失敗に終わった。その結果、日本の圧力で退位せざるをえなくなった。
代わって王位に就いた27代王・純宗(スンジョン)。国王とはいっても、すでに権限は限定的だった。
1910年、日韓併合によって朝鮮王朝は滅亡し、純宗も国王ではなくなってしまった。歴史的には「朝鮮王朝最後の国王」として記録されることになった。
このように、朝鮮王朝で亡くなるまで国王の座に留まっていられなかったのは、27人の中で8人だった。その割合はほぼ3割。つまり、朝鮮王朝国王の生前退位は、ごく普通に起こりえたことだったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)