朝鮮王朝最高の名君と称される4代王の世宗(セジョン)。その長男が文宗(ムンジョン)である。彼は1人の美しい女性をこよなく愛した。それが、後の顕徳(ヒョンドク)王后であった。
恨み骨髄まで
文宗と顕徳王后の間に最初に生まれた子供が敬恵(キョンヘ)公主(コンジュ)だ。
彼女は、朝鮮王朝で一番美しい王女だったと言われている。
そして、2人目の子供が1441年に生まれた長男だ。それが後の6代王・端宗(タンジョン)である。
しかし、あってはならない不幸が起こってしまった。顕徳王后が出産からほどなくして亡くなってしまったのだ。
文宗は顕徳王后の死後に新たな正室をもとうとしなかった。それほどに顕徳王后を愛していたのだ。
いずれにしても、文宗の息子は端宗ただ1人だった。
文宗が1452年に在位わずか2年で世を去ると、端宗が11歳で即位したが、この幼い王は叔父から王位を奪われてしまった。その叔父というのが、文宗の弟であった世祖(セジョ)である。結局、端宗は世祖によって死罪にさせられてしまった。
その後、端宗の母であった顕徳王后が世祖の夢の中に現れて執拗に呪った。
思えば、兄嫁であった顕徳王后が世祖に恨みを抱くのは当然のことだった。我が子は世祖に王位を奪われたあと殺されているし、実家の母と弟は端宗復権騒動に関わったとして死罪になり、父も身分を落とされていた。その憎悪は“恨み骨髄まで”という表現でも足りないほどであったことだろう。
世祖が夢の中で顕徳王后に罵倒されてから、彼の周囲では不幸が重なるようになった。慟哭の出来事は1457年、長男の懿敬(ウィギョン)世子がわずか19歳で亡くなったことだ。
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顕徳王后の呪い
世祖の落胆は甚(はなは)だしかった。
その直後から、宮中では噂話が絶えなくなった。
「殿下は呪われている。世子様を亡くされたのも呪いのせいだ」
決して根拠がない話ではなかった。世祖は顔の皮膚病に悩んでいたが、それができ始めたのは、夢の中で顕徳王后から顔に唾を吐かれた直後だった。そして、今度は最愛の息子までも……。
世祖は気味が悪くなって、顕徳王后の墓をつぶしてしまおうと考えた。
ところが、そこでも奇妙なことが起こった。職人が墓を掘り起こして遺体をおさめた棺を運び出そうとすると、それがビクとも動かなかったというのだ。これには、職人たちも腰を抜かした。結局、丁重な祭祀を行なって墓を清めたことで、ようやく棺を運ぶことができた。
その棺を職人たちが見知らぬ場所に放置したというから、ひどい話である。心ある人たちによって埋葬されたのがせめてもの救いだ。
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これは因果応報なのか
世祖の不幸はその死後も続いた。
長男が夭折したために次男が後を継いで8代王の睿宗(イェジョン)となったが、わずか1年2カ月の在位で世を去った。まだ19歳の若さだった。
世祖の息子は、2人とも10代で亡くなったことになる。
「幼い甥を殺して王位を奪った祟(たた)りだ。母の怨念に違いない」
顕徳王后が化けて世祖の夢に出てくるという話は、当時あまりに有名だった。しかも、因果応報は世のならいでもある。世祖は非情な方法で野心を叶えたがゆえに、悲劇的なしっぺ返しをくらったのだ。
数十年が過ぎて、11代王の中宗(チュンジョン)のときに、文宗が単独で祭祀を受けていることが問題となった。顕徳王后の墓を復旧させよ、という声が起こり、最終的に中宗が承認した。
しかし、放置されて半世紀以上が過ぎ、顕徳王后の墓の位置がわからなくなっていた。王命を受けた担当者が困り果てていると、彼の夢の中に顕徳王后が出てきて、墓の位置を教えてくれたという。結果は、その通りの場所に墓があった。
こうして、顕徳王后は夫であった文宗の陵墓の横に安らぎの場所を得た。彼女は、世祖を呪い続けた王妃として後世の人たちに記憶された。
文=康 熙奉(カン ヒボン)