国内の反乱では初めて
李适はなにしろ、最強と言われた北方守備部隊を管轄していた。この軍を使って反乱を起こした李适は、王朝軍を次々に破って都の漢陽に迫った。
命の危険を感じた仁祖は、あっさりと漢陽を捨てて、忠清(チュンチョン)南道の公州(コンジュ)に向かって避難していった。
朝鮮王朝は1392年に建国されたが、王が国内の反乱によって漢陽から逃げるのは初めてだった。豊臣軍の朝鮮出兵のときの宣祖とは、事情がまるで違うのである。
李适に率いられた反乱軍が漢陽を占領したのは、挙兵してから19日目の1624年2月10日であった。
最終的に、反乱軍は王朝軍の巻き返しによって敗れ、李适は部下に殺されている。こうして乱は終わったのだが、あっさりと都から逃げ出したことで、仁祖の評判は非常に悪くなった。
それから3年後、朝鮮王朝は今度は北方の異民族の後金に攻められた。
このときも仁祖は、王宮から逃げて江華島(カンファド)に避難した。最後はなんとか和睦を結んで、朝鮮王朝は滅亡を免れた。
しかし、仁祖は後金を尊重するという和睦条件を守らず、相変わらず明のご機嫌ばかりとっていたので、後金は国号を清と変えた後の1636年12月に12万の大軍で侵攻してきた。
このとき、仁祖は漢陽の南側にある南漢(ナマン)山城にあわてて避難した。
南漢山城での籠城は40日あまりになり、ついに耐えきれなくなった仁祖は、漢江(ハンガン)のほとりの三田渡(サムジョンド)において、清の皇帝の前で、土下座のごとき屈辱的な謝罪をさせられた。
以上のように、3度も王宮から逃げて保身に執着した仁祖。民衆が強い不信感を抱いたのも当然だった。
構成=「チャレソ」編集部
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