朝鮮王朝で「性格がきつすぎる王族女性」と称された5人は誰か

個性的な2人
4人目は、明聖(ミョンソン)王后である。
18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正妻で、19代王・粛宗(スクチョン)の母となっている。
なんといっても、顕宗は妻の明聖王后が怖くて、朝鮮王朝の国王としては珍しく側室を持たなかったという。
また、明聖王后は、張禧嬪(チャン・ヒビン)の欲望に気づいて、彼女を王宮から追放したこともある。
1683年、息子の粛宗が原因不明の病にかかったとき、助けたい一心で、真冬にもかかわらず水浴びの苦行を続け、それが元で亡くなってしまった。
ただし、粛宗は不思議と病が治った。明聖王后は我が身を犠牲にして息子を守ったのである。

最後は恵慶宮(ヘギョングン)だ。
22代王・正祖(チョンジョ)の母だが、もとは思悼(サド)世子の妻だった。
当初は夫婦も仲が良かったが、後に険悪な関係となり、恵慶宮は夫を激しく非難した。結局、思悼世子は父の英祖(ヨンジョ)によって米びつに閉じ込められて1762年に餓死し、恵慶宮も世子嬪の資格を失った。
しかし、息子の正祖が王位にあがり、王宮内での立場を強めた。正祖亡きあとも実家の名誉回復に奔走し、1815年に80歳で世を去った。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
提供:韓流テスギ
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2019.11.15