朝鮮王朝にはこんな悲惨な王妃が5人もいた!

不幸の始まりは?
3人目は仁穆(インモク)王后である。
14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正室で、1606年に永昌(ヨンチャン)大君を出産した。
しかし、1608年に光海君(クァンヘグン)が王位に上がると、永昌大君は殺され、自身も幽閉されてしまった。まさに屈辱まみれだった。
1623年、クーデターで光海君が追放されると、光海君の斬首を強硬に主張したが、その願いはかなえられなかった。
4人目は廃妃・柳氏(ユシ)だ。
15代王・光海君(クァンヘグン)の正室だった。
夫が1623年にクーデターで廃位となり、夫と一緒に江華島(カンファド)に流罪となった。途中の船上で光海君に対し「潔く海に飛び込んで死にましょう!」と呼びかけたが拒否された。


流罪は息子夫婦と一緒だったが、息子夫婦が島からの逃亡に失敗して絶命。そのことを
悲観して柳氏も自ら命を絶ってしまった。
最後は明成(ミョンソン)皇后だ。
26代王・高宗(コジョン)の正室である。
元来が聡明な女性で、政治にも積極的な関与した。高宗の父の興宣大院君(フンソンデ
ウォングン)と対立したが、ロシアに近づいて日本に対抗しようとした。1895年、日
本の勢力によって王宮の中で殺害された。
以上の5人が朝鮮王朝の中でも特に悲惨な王妃たちである。王妃になってしまったこと
が、不幸の始まりだったのかもしれない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
提供:韓流テスギ
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2019.10.17