思悼世子(サドセジャ)はなぜ妻と不仲だったのか?

国王・英祖(ヨンジョ)の息子だった思悼世子(サドセジャ)と、高官・洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘であった恵慶宮(ヘギョングン)。2人は果たして、どんな夫婦だったのだろうか。

夫婦の息子は正祖

思悼世子と恵慶宮はともに1735年に生まれた。
2人は9歳のときに結婚した。
このとき、21代王・英祖(ヨンジョ)の息子だった思悼世子は世子(セジャ)になっていた。つまり、恵慶宮は結婚した時点で次の王妃が約束されていたのだ。
思悼世子と恵慶宮の間に最初の子供が生まれたのは、2人が15歳のときだった。
誕生したのは長男で懿昭(ウィソ)と命名された。
この子もいずれは王になる運命を持っていたはずなのだが、わずか3歳で病死してしまった。
夫婦の落胆は尋常ではなかった。
それも当然なのだが、終わる命があれば、始まる命もあった。長男が世を去った年に二男が生まれた。
その男の子が、後の22代王・正祖(チョンジョ)である。よく知られているように、ドラマ『イ・サン』の主人公だ。
結局、二男の下にも2人の娘が生まれた。思悼世子と恵慶宮の夫婦は二男二女をさずかったのである。
当初、思悼世子と恵慶宮は仲が良かったのだが、思悼世子の素行が悪くなってからは、夫婦の関係が変化していった。
「しだいに夫は変わってしまい、聡明さを失って奇行ばかり繰り返すようになった」
後に恵慶宮がそう回想しているが、彼女が指摘した「奇行」とは何なのか。

まずは酒乱だ。
思悼世子は酒に溺れ、父親の英祖からきつく禁酒を厳命されたことが何度もあった。しかし、彼の酒癖は直らなかった。
次に暴力だ。
酒の影響もあったと思われるが、思悼世子は側近にたびたび暴力をふるった。それは年とともに度が過ぎていき、ついには側室の1人を殺してしまった。
なぜ思悼世子は問題ばかりを起こしたのか。
恵慶宮は「彼は父を恐れるあまり錯乱を起こして数々の問題を引き起こしてしまった」と後に書物に記している。
その書物というのは、彼女の回顧録とも言える性格を持った「恨中録」だ(「閑中録」と表記されることもある)。
(ページ2に続く)

 

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