途絶えた使節交流
15世紀以降、朝鮮王朝が正式な使節を日本に送ろうとしたことが合計で7回あった。しかし、計画だけで中止になることも多く、現実的に朝鮮王朝の使節が京都までを往来したのは3回だけだった。
最初は1428年のことで、6代将軍・足利義教の襲職を祝うために使節が日本に出掛けた。
2回目は1439年で、両国の修好を目的とする使節だった。3回目が1443年で、足利義教の死去を悼むと同時に7代将軍・足利義勝の襲職を祝うために使節が日本に渡っている。
この時期には立て続けに朝鮮王朝の使節が日本を訪れていたが、以後は海難事故を恐れる風潮が強くなって、使節の派遣が途絶えてしまった。
それでも朝鮮王朝と室町幕府の関係はおおむね良好だったのだが、日本が戦乱の世になって室町幕府が政治的に機能しなくなってくると、両国の関係も変化せざるをえなかった。そんな中で、1510年4月4日に、富山浦と薺浦の対馬人が蜂起するという事件が起こった。
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