軍事政権の横暴
悪質な隠蔽工作が行なわれた。
「机をドンと叩いたら、それで急に倒れてしまった。急いで病院に運ぼうとしたが、車の中で亡くなった」
警察はそう発表したが、言い訳があまりに稚拙すぎて国民が怒った。警察は必死に事実を隠蔽しようとしたが、新聞報道などで暴露された。国民の憤怒は自由を束縛する全斗煥政権に向けられた。
尊い学生の死は、やがて韓国全土に燎原の火のように燃え上がる民主化闘争の導火線となった。
1987年4月13日、全斗煥は談話を発表して、翌年9月のソウル五輪までの憲法改正論議を禁止した。
そのうえで、年末に行なわれる予定の大統領選挙を国民が自ら選ぶ直接制ではなく、5000人の選挙人による間接制で実施することを発表した。これでは、全斗煥の意を酌んだ候補者が次期大統領に選出される状況となってしまう。
国民の大反対にもかかわらず、大統領間接選挙を強行しようとした与党の民正党は、6月2日に党代表委員の盧泰愚(ノ・テウ)を次期大統領候補に推挙した。盧泰愚は、全斗煥と陸軍士官学校の同期生であり、全斗煥が率いる軍事政権のナンバー2だった。
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