2018年11月2日に康熙奉(カン・ヒボン)著『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』(実業之日本社/900円+税)が発行されます。この本では、韓国時代劇が描いている朝鮮王朝のことが詳しく解説されています。そこで、著者の康熙奉氏に朝鮮王朝の概略について説明していただきます。
康熙奉(カン・ヒボン)著『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』(実業之日本社発行/2018年11月2日発売)
国教は儒教
朝鮮王朝を創設した李成桂(イ・ソンゲ)は、もともと高麗王朝の武将でした。倭寇や異民族の撃退で頭角を現しましたが、1388年に中国の明と領土紛争が起きたとき、李成桂は明と争うことに反対しました。それは、「小国は大国にさからってはいけない」という論理からでした。
しかし、高麗王は明と戦うことを決意して、司令官に李成桂を指名します。それでも彼は、「今は夏ですから農業も忙しいので若者を兵にかりだしてはなりません」と反対するのですが、聞き入れられませんでした。
李成桂は仕方なく北に向かって兵を動かしたのですが、川の増水で国境から先に進めなくなり、ここで彼は意を決して兵を引き返します。そして、李成桂は都であった開京(ケギョン)を攻めて王を追放し、最高実力者になりました。4年後の1392年には、ついに朝鮮王朝を建国し、李成桂は初代王の太祖(テジョ)になりました。
それと同時に、風水で「もっとも気がみなぎる場所」として選ばれた漢陽(ハニャン/現在のソウル)に遷都します。
1395年、景福宮(キョンボックン)という王宮を建てるときに、正門の位置を南向きにするか東向きにするかで大論争がありました。太祖の側近だった仏教の高僧が「南側に火をもたらす災いがあるので東向きがいい」と説いたのに対し、儒学者の鄭道伝(チョン・ドジョン)は、「王は南に向かって政務をつかさどるほうがいい。そうすれば王朝が長く続く」と南向きを主張しました。
太祖は儒学者の意見を取り入れ、南向きに王宮を建てました。この出来事によって、朝鮮王朝が仏教より儒教を重んじることが如実に示されました。
儒教は、人の身分に違いがあることを認めます。男尊女卑もあります。このように、朝鮮王朝は儒教の影響を受けて厳格な身分制度を採用しました。
結局、朝鮮王朝は1392年から1910年まで518年間も続きました。なぜ、これほど長く王朝が存続したのでしょうか。
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