申叔舟(シン・スクチュ)は15世紀の朝鮮王朝で官僚トップになった人物だった。日本に行った経験もあり、当時の朝鮮王朝で誰よりも日本のことをよく知っていた。そんな彼は臨終のときにどんな言葉を残したのか。
1443年に来日した申叔舟
1392年に誕生した朝鮮王朝は、日本の室町幕府への使節派遣を合計で7回も計画していた。
しかし、中止になってしまったことが何度もあり、実際に朝鮮王朝の使節が京都まで行ったのは、1428年(足利義教の襲職を祝う使節)、1439年(日朝の修好を名目とした使節)、1443年(足利義教の死去のお悔やみと足利義勝の襲職を祝う使節)の3回だった。
すべて4代王・世宗(セジョン)の時代である。彼はハングルを創製して、朝鮮王朝最高の名君と称されている。
この世宗は、日本との関係を特に重視していた。その際に側近として重要な働きをしたのが申叔舟(シン・スクチュ)だ。
彼は、1443年に朝鮮王朝が派遣した使節の一員として来日しており、そのときの旅程が後に『海東諸国紀』という本になっている。(ページ2に続く)