「コラム」世界遺産となった朝鮮通信使とは何か

 

大歓迎された朝鮮通信使

朝鮮通信使の最初の3回は、国交回復後の戦後処理を主な目的としており、正式には「回答兼刷還使」と呼ばれた。徳川幕府からの来日要請に対する回礼という意味で「回答」を使っており、同時に、朝鮮出兵のときに日本に連れてこられた捕虜を連れて帰る「刷還使」を兼任していた。
第4回目は泰平祝賀、第5回目は将軍家の嫡男誕生祝賀が来日目的だったが、第6回目以降はすべて、将軍の襲職祝賀を名目として来日している。つまり、朝鮮通信使が定例化されてからは、「御代替祝儀の信使」であったわけだ。

朝鮮通信使の一行は、正使、副使、従事官を正式な三使とし、随員を加えておよそ400人から500人の規模だった。この大人数が朝鮮半島と江戸の間を往復した(最後の使節となった第12回目は対馬で聘礼を行なっている)。

随員には、通訳、製述官、武官、医師などの他に、贈答品の管理輸送に当たる者から多数の船員まで含まれていた。
経路は、釜山から船で対馬、壱岐、瀬戸内海を経由して大坂に上陸し、そこから淀川をのぼって京都に至ってからは、陸路を江戸まで向かった。江戸に行くまでの警護・接待は沿道の各藩がそれぞれに担当し、幕府からも東海道の岡崎まで出迎えの使節を派遣したが、その饗応のために各藩や幕府は莫大な出費を覚悟しなければならなかった。
いずれにしても、日本が国家をあげて朝鮮通信使を歓迎したのである。(ページ3に続く)

2017.11.01