2カ月後に絶命
燕山君は、クーデター軍が王宮に侵入したのを知って、ブルブル震えるばかりだった。側近たちも「外の様子を見てまいります」と言うと、脱兎のごとく王宮から逃げ出した。こんな有様では、クーデターが簡単に成功するのも無理はなかった。
燕山君を王宮から追放したクーデター軍は、晋城大君に対して正式に国王就任を要請した。しかし、晋城大君は拒み続けた。
「君たちが国家のために行動を起こすことは当然だが、私は実に不徳が多い人間である。私に国王が務まるとは、どうしても思えない」
そう言って何度も晋城大君は国王就任を辞退したのだが、もはや拒絶が不可能ということを悟り、最後になってようやく国王になることを決意した。
こうして、晋城大君は11代王の中宗(チュンジョン)になった。
彼は第一声を発した。
「近年、王が道理を失い、民心が窮していたのに余は救済できなかった。しかし、幸福にも文武の臣たちが朝廷と民に対する重責を担い、余が即位することになった」
朝鮮王朝では誰もが「万歳!」と叫んで、中宗の即位を歓迎した。燕山君の暴政が終わった解放感はかくのごとく大きかったのである。
廃位となった燕山君は流罪先の江華島(カンファド)で2カ月後に絶命した。あまりに突発的な死亡だったので、「毒殺されたのでは?」という疑惑が残った。
王となった晋城大君と廃位させられた燕山君。あまりに対照的な異母兄弟であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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