1987年6月10日、ソウル市では、膨れ上がった学生デモ隊が都心部に繰り出し、路上に座りこんで「独裁反対」を叫び星条旗を燃やした。これに対し、戦闘警察は催眠弾攻撃をかけ、双方の激しい攻防が続いた。また、派出所への投石、新聞スタンドへの放火などもあり、ソウル市内は深夜まで騒然とした雰囲気に包まれた。
アメリカの反対
ソウル市だけでなく、全国30都市以上で抗議デモが激化。催涙弾の被害が広がって各都市はマヒ状態となり、事態は深刻度を増すばかりだった。
大規模なデモには学生だけでなく市民も参加した。いわば、国民すべてを巻き込んだ大闘争に発展していたのである。6月15日には全国45大学で6万人の学生がデモを繰り広げ、その抵抗運動は衰えることを知らなかった。名門の延世(ヨンセ)大学では学生たちが「李韓烈(イ・ハンヨル)君を生かせ!」と叫んだ。李韓烈とは、デモ参加中に催涙弾を頭部に受けて重体に陥っていた学生だった。
燃え上がった反政府運動は、6月18日になってさらに激化した。ソウルでは学生3万人が中心部で警察のバスを焼いたために、長時間にわたって交通がマヒ状態となった。釜山でも10万人にふくれあがった学生を戦闘警察も阻止できず、中心部は解放区同然となった。改憲の見送りを決めた4月の大統領談話以来、韓国のあらゆる層の指導者たちが抗議の声明をだし、民主化闘争はかつてない規模に拡大。特に韓国社会で厚い信頼を受けているカトリック勢力が民主化要求を強く打ち出していた。
韓国全土の反政府運動の様子が世界に伝わるのは政権側にとって大打撃だった。主要国の中には翌年のソウル五輪の開催を危ぶむ声も高まり始めた。
アメリカ国務省は「韓国は今、より開放された政治体制を実現するための変革を必要としている」という声明を発表し、韓国政府に対して穏健な対応を求めた。
アメリカが最も心配していたのは、デモの鎮圧に軍隊が出動することだった。そうなれば流血の惨事が避けられず、韓国の政情不安は決定的なものになってしまう。さらに、韓国の民主化要求の声が次第に反米色を強めていくことも気掛かりだった。(ページ2に続く)