「コラム」朝鮮王朝おもしろ人物列伝/哲宗編

 

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第27回 教養のない王・哲宗

 

朝鮮王朝25代王・哲宗(チョルジョン)は、農民から王になった人物だ。そんな彼に対する周りの者たちの不安は大きかった。哲宗は、王としてどのような人生を歩んでいたのだろうか。

 

みじめな生活が一変

哲宗はもともと元範(ウォンボム)という名前だった。曾祖父は、21代王・英祖(ヨンジョ)の息子である荘献(チャンホン)。彼には、22代王・正祖(チョンジョ)の他に恩彦君(ウノングン)という息子がいた。その恩彦君の孫が元範なのである。

しかし、元範の祖父から兄まで政争に巻き込まれて亡くなっていた。彼も江華島(カンファド)に流されて、農業をしながらみじめな生活を送っていたため、王宮内であまり存在を知られていなかったのだ。そんな彼に突然の転機が訪れる。

1849年に24代王・憲宗(ホンジョン)が22歳という若さで世を去った。しかし、彼の王としての人生は、祖母である純元(スヌォン)王后と、その実家の安東(アンドン)・金(キム)氏に振り回された非常に影の薄いものだ。

純元王后は、憲宗が亡くなっても悲しんでいる時間はなかった。憲宗には息子がおらず、早急に後継者を探す必要があったが、当時の王家には男子が少なくなっていた。そんな緊急事態の中で、純元王后が見つけてきたのが元範である。

 

王となった元範

江華島で生活していた元範は王宮に呼び出されたことに脅えた。彼の祖父や兄は、王宮から使者が来た後に死罪となったからだ。「ついに自分の番が来たか」と思いながら王宮にやってきた元範は、そこで勲功をあげて凱旋してきた将軍のような扱いを受けた。

1849年6月、元範は25代王・哲宗として即位した。本来、王族の男子は幼いころから勉学に励むのだが、哲宗は農業に精一杯で勉学を行なう時間がなく、彼は文字をまともに読み書きすることができなかった。

純元王后は、哲宗の学識のなさに危機感を募らせた。彼女は哲宗が即位した日の御前会議で、重臣たちに「王には学識を身につけることの必要性がある。責任を持って補佐するように」と言った。もちろん、王の学識のなさに誰もが大きな不安を抱えていた。その中で重臣の1人が、「我々も最善を尽くして王を支えますが、太母(テモ)殿下(純元王后のこと)もよろしくご協力ください」と意見を述べた。

哲宗が漢字で命令書を書くことができないので、ハングルを使用していた。当時の朝鮮王朝では、ハングルは学識のない人が使う文字だと認識されていた。仮にも王である哲宗が使うべき文字ではなかったのだ。

 

読書経験がほとんどない

文字をまともに読むことのできない哲宗は、当然ながらあまり本を読んでいなかった。臣下たちに「今までどんな本を読んできましたか」と聞かれた彼は、中国の代表的な歴史書である『通鑑(トンガム)』の2巻と、儒教の修身や作法の教科書である『小学(ソハク)』の1巻と2巻を読んだと答えた。

それを聞いた臣下たちは、嘲笑した顔を隠すためにうつむいた。なぜなら、『小学』は子供用の書籍だったからだ。純元王后は、文章を学ぶなら何を読めばいいかと聞くと、重臣たちは歴史を簡単にまとめた『史略(サリャク)』や儒教の基礎聖典である経書(キョンソ)を薦めた。王族の男子であれば、そういった本は本来、幼いときに学ぶべきものだ。

そんな哲宗の無学ぶりは、純元王后や臣下たちをより不安にさせた。とにかく周りの者たちは、王に学問の重要性を伝えたが、今まで勉学をしてこなかった人が王になったからといって、いきなり博学になるわけがないのだ。

 

農民たちが起こした反乱

哲宗が王となってから2年後の1851年、彼は安東・金氏の娘を妻として迎えた。これにより安東・金氏の勢道政治(王の信任を得た人物や集団が政権を独占的に担うこと)が強くなった。その影響を一番受けたのが農民たちである。実際にどういうことが起こったかというと、政権側は農民たちの税の負担を重くして、洪水などの災害が起こったとしても何の対策も取らなかった。それにより、人々の生活が苦しくなったのは言うまでもなく、各地で反乱が起きた

このとき、朝鮮王朝は国内が混乱している場合ではなかった。かつて朝鮮王朝はキリスト教を弾圧していたことにより、西欧各国から糾弾されていたため、一刻も早く有効な外交手段を行使する必要があった。そんな状況の中でも安東・金氏は一族の繁栄だけを考えていて、民の暮らしを安定させようとはまったく思っていなかった。

純元王后は、「国を衰退させないためには民の力が必要だ」と言ったが、彼女が本当にそう考えていたかはわからない。その純元王后は1857年に世を去った。

もともと農民だった哲宗は、生活に苦しんでいる人々の姿を見て、何度も救済策を実行に移そうとした。しかし、重要な職は安東・金氏によって独占されていたため、彼は自らの親政を押し通すことができなかった。

王としての自分の力に限界を感じた哲宗は、酒や遊興に溺れてしまう。そんな贅沢な生活が彼の身体を蝕(むしば)んでいき、体調を崩した哲宗は1863年に亡くなった。

文=康 大地(コウ ダイチ)

コラム提供:ロコレ
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2016.09.03