第10回/布施辰治(前編)
宮城県石巻市の蛇田地区。「あけぼの南公園」という小さな公園がある。そこを訪ねたのは2009年12月のことだった。私は公園の端にあった横長の顕彰碑に近づき、ずっと見ていた。
真似ができない生き方
顕彰碑の中央部分には次の言葉が刻まれていた。
生きべくんば
民衆と
ともに
死すべくんば
民衆の
ために
この言葉を何度か心の中で反芻してみた。
時代がかった壮語にも思える。この言葉を口に出しても周囲に納得してもらえる人が、今の世の中にどれほどいるだろうか。
民衆のために生き、民衆のために死ぬ覚悟……。「真似ができない生き方」の究極であるに違いない。
先の言葉を座右の銘にしたのは、この地に生まれ育った布施辰治である。顕彰碑は彼の業績を讃えるために、1993年11月13日に建立された。その日は、布施辰治の113年目の誕生日に当たる。
24歳で弁護士に!
布施辰治とは、どんな人物だったのだろうか。
私が彼のことを知ったのは、拙著を読んだ読者から一通の手紙を受け取ったことがきっかけだった。
手紙には、「布施の生涯を映画化」という大見出しを掲げた2009年8月4日付「石巻かほく」紙の切り抜きが同封され、次のような文章も添えられていた。
「私の住む石巻の出身者に、布施辰治というかなり高名な人物がいます。2004年に韓国建国勲章を受章したと知りました。この石巻にも、韓国にかかわりのある人がいたことは、今の私にとって、とても嬉しいことです」
率直な喜びが綴られた手紙を読みながら、私は布施辰治に興味を持った。ドキュメンタリー映画が作られるほど、彼の業績が知れ渡るようになってきたのだ。
布施辰治が蛇田村(現在は石巻市)で生まれたのは、1880年(明治13年)のことである。
子供の頃に漢学を詳しく学び、中国や朝鮮半島への尊敬の念を強くしたという。
1899年、18歳のときに上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に進学。卒業後、22歳のときに司法試験に合格し、24歳のときに弁護士を開業した。
逆風に立ち向かう獅子
よほど有能だったのだろう。弁護依頼が殺到し、1918年には1年間に担当した件数が、判決が下った刑事事件だけでも190件にのぼった。超人としか言いようがないほどの活躍ぶりだ。
布施辰治は特に、社会的弱者の弁護に熱心だった。
いくつもの労働争議や社会運動弾圧法廷で辣腕をふるった他、普通選挙実現や公娼廃止などに向けた運動も活発に行なった。
特に、差別される人たちに同情し、1919年からは、「三・一独立運動」に関連した容疑で東京で逮捕された留学生など朝鮮半島出身者たちの弁護を数多く担当するようになった。
彼はもともと、1910年に強行された日韓併合を「資本主義的で帝国主義の侵略であった」と憤怒していた。
それだけに、朝鮮民族の独立運動に対して共感を示し、自らもその運動を支えたいという強い意識を持っていた。
なぜ、布施辰治はそれほどまでに朝鮮半島の人たちを救いたいと思ったのか。それは、彼が「虐げられている者こそが最も救われるべきだ」という信仰を持っていたからに他ならない。
人権意識が薄い時代の困難さは、現代からは想像すらできない。そんな時代に自らの信念に生きた布施辰治は、まさに「逆風に立ち向かう獅子」を思わせる。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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