「コラム」第2回 夏こそ行きたい!韓国南部の旅

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海から突き出ている岩がウェドルゲ

済州島(チェジュド)は楕円形をした韓国最大の島。面積は約1800平方キロメートルで、沖縄本島の約1・5倍である。島の中央に韓国最高峰の漢拏山(ハルラサン)がそびえている。標高は1950メートル。これほど高い山が南北を隔てる壁の役割をしているので、島の北部と南部では気候が変わってくる。

 

ひとりぼっちの岩

南部側の西帰浦(ソギポ)市の人に言わせると、「北側は北風も強いし、南に比べると気温も2度や3度低い。温かいし、住むなら南側だよ」ということになる。

けれど、島を上下に真っ二つにすると、北側に40万人ほどが住み、南側には15万人しかいない。「住むならこっち」と言う南側の人ですら、行政の中心地であり空港もある北側の済州市に移る傾向が強まっている。

特に大きいのが教育問題だという。子供の将来を考えると、教育環境がいい済州市に住みたいと済州島の親たちは考えるようだ。

北側と南側とでは地形も違う。済州島を一周してみるとよくわかるが、北側は平坦な海岸線が多いが、南側は絶壁ばかりである。よって、有名な滝は南側に偏っている。一説によると、漢拏山が大爆発したときに、その衝撃で南側が隆起し北側が沈んだという。火山の噴火で島が南北方向に傾いたというわけだ。

観光の面から見れば、恩恵を受けたのは南側だ。絶壁の風景は絵になりやすい。ウェドルゲの海岸もその一つだ。

ウェドルゲというのは、周囲10メートル、高さ20メートルの岩のことで、海中から空に向かって突き出ている。150万年ほど前、火山の爆発で溶岩が海岸に溢れ出たとき、その一部が孤立して海に立つ岩となった。単独なので、他の岩に比べて寂しそうに見えるところからウェドルゲ(韓国語で「ひとりぼっちの岩」という意味)と呼ばれた。西帰浦の港から西に約2キロメートルのところにある。

 

さいはての地

奇岩の絶壁が続き、周囲の海は青々としていて実に美しい。きれいな海が見たい、という私の願望はウェドルゲで十分にかなえることができた。

このウェドルゲでは、イ・ヨンエ主演の『大長今(テジャングム)』(邦題は『宮廷女官チャングムの誓い』)のロケも行なわれた。そのことを示す観光用の看板を見ながら、大ヒットした『大長今』の影響の大きさを考えた。実際、ウェドルゲの観光客も増えていて、遊歩道なども新しく整備された。

思えば、『大長今』では済州島が非常に重要な役割を担っていた。謀叛の罪をきせられたチャングムは済州島に流罪となり、そこから物語は大きく変わっていく。彼女は復讐に燃え、何度も逃亡を企てる。その度に捕まって苦境に陥るのだが、医術を学ぶことによって、再び宮中に戻る機会を得る。まさに、済州島は捲土重来を期す場所として描かれていた。

同時に、ドラマを通して「流人の島」という印象も強烈に残った。特に、チャングムと師匠のハン尚宮(サングン)が罪人として済州島に向かう場面が、多くの視聴者の涙を誘った。悲惨な最期を遂げたハン尚宮。最愛の師匠の死を嘆き悲しむチャングム。そのチャングムの嗚咽の中に、済州島というさいはての地のおぞましさが含まれていた。

結果的に、『大長今』の人気が上がれば上がるほど、韓国だけでなく日本でも済州島が流刑地として知られるようになった。

 

流刑の島

『大長今』は16世紀前半の物語である。ときは、朝鮮(チョソン)王朝時代前期だった。当時の流刑は、罪の軽重によって流配地を決定するというものだった。つまり、重い罪を負うほどソウルから遠い場所に流されたのである。

特に、多かったのが朝鮮半島西南部の諸島や済州島。とりわけ、朝鮮王朝時代に南海の孤島とされた済州島は、最も多くの政治犯が流刑となった島であった。

しかも、済州島への流罪は終身刑を意味していて、生きて再び都に戻ることは皆無に近かった。それゆえ、権力闘争に明け暮れた支配階級の人々は、済州島への流罪をとても恐れた。

その中の1人が、朝鮮王朝第15代国王の光海君(クァンヘグン)である。

1608年に即位した光海君。当初は名君という評判もあった。豊臣軍との戦いによって荒廃した国土の復興に尽力し、歴史的に貴重な史籍の編纂にも貢献をした。

しかし、取り巻きが王の威光を利用して国政を乱し、役人の間で賄賂が横行した。金さえあれば、官位・官職を得やすい風潮が生まれ、民衆から怒りの声が上がった。光海君も兄や弟を殺し、悪評にまみれた。

 

流刑となった光海君もウェドルゲを見たのだろうか

流刑となった光海君もウェドルゲを見たのだろうか

光海君の晩年

朝鮮王朝では常に権力闘争が激しく、権謀の末の政権交代がよく起こった。1623年、光海君はクーデターによって王の座を追われた。都を追放され、最後は済州島に流された。

行き先は告げられていなかった。船の周りに幕を張って、方向がわからないようにしてあったのだ。

済州島に着いたとき、光海君は初めて自分が孤島に流されたことを知る。

「なぜ、こんなところへ……」

光海君は絶望した。この島で骨を埋める覚悟もなかなかできなかった。

「ご在位のとき、奸臣を遠ざけ、良からぬ者が政治にかかわらぬようにしていれば、ここまで遠くにお出でにならなかったのに……」

島の役人にそう言われたものの、すべては後の祭であった。

光海君は元の国王ということで、生活に不自由はなかった。しかし、威光という点では昔と比べるまでもなく、「王の座を追われたのは、ご自身が招いた結果」と周囲の者から陰口を言われる有様だった。

光海君が没したのは1641年。享年66歳。15年も王位にあった者としては、実にあわれな晩年だった。

私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)は、『大長今』のおかげで新たに整備されたウェドルゲの遊歩道を歩きながら、しみじみと済州島の今昔を思った。

かつて、都の人が身震いするほど恐れた済州島は、今は韓国最高の観光地となった。よく言われている「東洋のハワイ」という讃え方は大げさだが、それでもここには行楽に必要な景観・美食・観光施設のすべてが良好に揃っている。昔の流刑地は経済効果が高い観光のメッカへと変貌したのである。

 

〈第3回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=「韓国のそこに行きたい」(著者/康熙奉 発行/TOKIMEKIパブリッシング)

コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/

2016.08.02