「コラム」康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓古代史が面白い」仏教伝来(後編)

DSCF1504堂々たる善光寺の本堂

 

物部氏が滅んだ翌年の588年には、飛鳥の真神原(まかみのはら/現在の奈良県明日香村)で飛鳥寺の造営が始まっていた。ここで注目すべきは、その11年前の577年に百済の都だった扶余(プヨ)で王興寺(ワンフンサ)が建てられていることだ。飛鳥寺で使われた瓦と、王興寺から出土した瓦を比べてみると、蓮の花をかたどった形がよく似ている。このことからも、飛鳥寺が王興寺の影響を受けていることは間違いない。

 

善光寺の本尊

『元興寺縁起』によると、593年にまだ工事途中だった飛鳥寺で、塔の心礎に仏舎利を納める儀式が行なわれている。

注目すべきはその時の服装と髪形だ。

完全に百済式であったという。

蘇我氏はそこまで百済に近かったのである。

飛鳥寺の建立には推古天皇や聖徳太子も関わっている。1つの寺ができるということは、そこにあらゆる技術が注ぎこまれるが、蘇我氏はヤマト政権の中枢と親密な関係を築きながら、自らの勢力を拡大していった。

飛鳥寺に今も残る大仏が日本で最古の仏像とされているが、実はもう1つ、「最古では?」と目される仏像がある。

それが善光寺の本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」。ただし、絶対秘仏で見ることはできない。

 

暗闇のお戒壇めぐり

善光寺を訪ねてみる。

現在の善光寺の本堂は1707年に建てられている。間口24メートル、高さ30メートル、奥行き54メートルという大伽藍は東日本で最大で、国宝に指定されている。

本堂の右側奥には、「お戒壇めぐり」の入口がある。「お戒壇めぐり」は、本堂の奥に安置されている本尊の真下に設置された回廊をめぐるものだ。

その回廊は真っ暗だ。

深い闇が回廊をおおっている。

回廊の中ほどで壁にかかる錠前をさぐり当てることができる。

この錠前がまさに本尊の真下の位置を示すもの。触れれば本尊の御心を感じることができると言われている。

本尊に代わるものが「前立本尊」。舟型の光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩となっている。

「前立本尊」も秘仏扱いで、7年に一度の御開帳で一般公開される。

 

善光寺の本尊の渡来秘話

善光寺に伝わる『善光寺縁起』による本尊の由来を見てみよう。

昔、天竺(インド)に評判が悪い金持ちがいた。

名を「月蓋長者」という。

溺愛していた娘が伝染病にかかり、名医にも見放された。月蓋は日頃から不信心だ

ったのだが、藁(わら)にもすがる思いでお釈迦様に娘の命乞いをした。お釈迦様は

阿弥陀如来を信じなさいと勧めた。

月蓋がそのとおりにすると、幸いに娘が全快した。それだけではなく、他の病人も

治った。

感激した月蓋は、阿弥陀三尊像をつくって祈り続けた。

阿弥陀三尊像はやがて百済に伝わり、聖明王の時代に人々を救済した。

阿弥陀三尊仏はさらに日本へ渡った。仏教を大いに広めるためだった。

欽明天皇は崇仏派の蘇我氏に阿弥陀三尊仏を与えた。

それにもかかわらず、国中に悪病がはやった。

排仏派の物部氏は、「異国の神を祀って日本の神が怒った」と批判。蘇我氏が建立

した寺を焼き払い、難波の堀江に阿弥陀三尊仏を投げ捨てた。

ある日、信濃の国の本田善光が堀江を通ったとき、水中から急に阿弥陀三尊仏が現

れ、「信州に連れて行きなさい」と語った。

善光は故郷に草堂を建て、阿弥陀三尊仏を安置した。

これが善光寺の始まりだ。

この縁起の中で、「物部氏が蘇我氏の建立した寺を焼き払い、難波の堀江に阿弥陀三尊仏を投げ捨てた」という記述に注目したい。

 

善光寺に隠された秘密

『日本書紀』にも、仏教の受容を反対した物部氏が、仏像を安置していた寺を焼き払い、焼け残った仏像を難波の堀江に投げ捨てた、という記述がある。こうした一連の動きと善光寺の存在は大いに関係があるようだ。

善光寺の創建を立証する史料は残っていない。

境内から発見された瓦を調べてみると、7世紀後半に相当な規模の寺院だったことが推測される。

古い記録からは、8世紀中頃に善光寺の本尊が「日本最古の霊仏」として知られていたこともわかる。

一説によると、『善光寺縁起』に登場する本多善光は百済の王族の1人で、適地を選んで阿弥陀像を安置して仏教を広めたそうだ。

長野県の古い国名は「信濃(しなの)」。大和朝廷で「信濃」という国名が採用されたのは704年頃だ。

それ以前は「科野(しなの)」の字が当てられた。古代朝鮮の史料には、百済から日本に派遣された使者の中に「科野」という名がある。

長野県の広い範囲で渡来人の遺物や遺跡も発見されている。百済系と高句麗系など、この地には多くの渡来人が住んでいた。

この地に善光寺が造営されて日本最古級の絶対秘仏があるというのは何を物語っているのだろうか。(了)

 

文=康熙奉(カン・ヒボン)

出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)

コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/

2016.06.27