「コラム」「徳川幕府と朝鮮王朝の善隣物語」/康熙奉講演録1

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6月29日(水)に康熙奉(カン・ヒボン)氏の講演会が行なわれます。それに先駆けて、康熙奉氏が過去に行なった講演会をまとめた著書『康熙奉講演録』より、選りすぐりの記事をご紹介していきます。

 

室町将軍と国書を交換

歴史には学ぶべき教訓が多いと思います。特に、江戸時代には、徳川幕府と朝鮮王朝が2世紀半にわたって友好関係を築きました。なぜ、それが可能だったのでしょうか。当時の状況を見てみましょう。

朝鮮王朝は1392年に創設されましたが、当初から倭寇の被害で苦しめられていました。それで、倭寇の本拠地とみなした対馬を朝鮮王朝の軍が1419年に攻めています。ただし、倭寇の被害を減らすためには対馬を援助したほうがいいということになって、対馬に食糧の援助などを行ないました。その対馬を通して正式な外交関係を結びながら、15世紀の前半から中盤にかけては、日本と良好な関係を築きました。

4代王・世宗(セジョン)の時代には3回ほど通信使が京都まで来て、室町将軍と国書の交換を行ないました。ところが、世宗が亡くなって15世紀の後半になると、官僚たちが海難事故などを恐れるようになり、だんだんと交流が途絶えていきました。そのうちに、日本では応仁の乱(1467年)が起こり、国内が混乱していって、戦国時代に入ってしまいます。

事実上、中央政府が機能しなくなって、朝鮮王朝との関係がほぼ途絶えました。それで、お互いに相手の国の事情がわからなくなってしまいました。

 

悲劇の朝鮮出兵

豊臣秀吉は1590年に小田原の北条氏を滅ぼし、全国を統一して天下人になり、今度は中国大陸の制覇まで夢想しました。その手始めに朝鮮半島を攻め、1592年の4月13日に小西行長に率いられた第1軍が釜山に上陸。文禄の役が始まりました。

日本はずっと戦国時代だったので、豊臣軍は戦争に慣れていました。しかも、鉄砲という強烈な武器を持っていました。一方の朝鮮半島は、創設されて200年の間、異民族の侵入がなく、太平の世だったので、ぬるま湯に浸りきっていました。それが戦力の差に出ました。

豊臣軍は連戦連勝で、釜山(プサン)に上陸して20日くらいで都の漢城(ハンソン)を占拠。さらに、一気に北まで攻め上がります。しかし、朝鮮半島各地で義兵が決起。水軍の名将として知られる李舜臣(イ・スンシン)が大活躍をしたり明からの援軍が来たりして、戦況は膠着状態になりました。その中で和睦を結ぶ動きがあって、一時的に戦乱はやみました。

しかし、和睦は決裂し、1597年2月から慶長の役が起こりました。このときは朝鮮半島の南部で、豊臣軍と朝鮮王朝・明の連合軍が激しく戦ったわけですが、1598年8月に秀吉が世を去って豊臣軍が撤退。同年11月に慶長の役が終わりました。戦乱の際に豊臣軍は朝鮮半島を荒廃させて、おびただしい数の人たちを日本に連行しました。朝鮮王朝は激しく秀吉を憎み、両国の関係は本当に険悪でした。

 

江戸時代の朝鮮通信使

徳川家康は1600年9月に関ヶ原の合戦に勝利して豊臣家から政権を奪い、1603年には江戸に幕府を開いて征夷大将軍になりました。家康は朝鮮出兵のときに自分の兵を1人も送っていません。また、豊臣家から政権を奪ったということは、朝鮮王朝からすると、自分たちに代わって仇を取ってくれたようなものです。

こうしたことで、朝鮮王朝は家康に好意を持っていました。家康も、国内を安定させるためには隣国と険悪だと困るので、朝鮮王朝との関係を早く修復したいと思っていました。しかも、国交が回復すれば、徳川幕府が外国から正統性を認められたことになるのです。いいことずくめでした。

朝鮮王朝は、対馬藩を通して日本から関係を修復したいという申し出を何度も受けました。朝鮮王朝も戦乱の中で日本に連れ去られた多くの人たちを帰国させる必要がありました。両国の意見が一致して、1607年に正式な外交使節が朝鮮半島から日本に来ました。画期的なことでした。

それ以降、朝鮮通信使は徳川将軍の就任を祝賀するという名目でたびたび来日していまして、合計で江戸時代に12回来ています。

経路は、都の漢城から釜山に行き、そこから船に乗って対馬、壱岐、瀬戸内海を通って大坂に上陸し、淀川を上って京都に着きました。そこから東海道を通って江戸に来て、徳川将軍と国書を交換しました。一行は大体400人から500人くらい。正使、副使、従事官を正式な三使として、さらに記録係、通訳、儒学者、医師、絵師、楽隊などが加わりました。沿道では土地の人たちと交流を重ね、文化使節としての役割も果たしました。

一方、日本からの使節は釜山で朝鮮王朝側の応接を受け、都の漢城までは行けませんでした。豊臣軍が攻め入ったときに、室町時代に日本の使節が辿った道を駆け上がったので、朝鮮王朝が警戒したのです。国内の状況を知られたくないということもあって、日本の使節とは釜山で国書の交換などを行ないました。外交というのは相互往来が原則ですから、朝鮮王朝はもっと度量を見せるべきでした。

 

互いにあざむかず争わず

江戸時代は鎖国と言われています。実際にオランダや中国とは、長崎において限定的な貿易しかしていませんでしたが、徳川幕府と朝鮮王朝の間では正式な国交が結ばれていました。つまり、江戸時代に日本が唯一、国家として交流を続けていたのが朝鮮王朝だったのです。その象徴であった朝鮮通信使の足跡が瀬戸内海や東海道などに数多く残っています。

それでは、なぜ江戸時代に両国が友好を保てたのでしょうか。

1つは、徳川家康の功績が大きかったと言えます。徳川幕府では、家康が「神君」と呼ばれるほど崇められていましたので、徳川将軍はずっと家康を見習いました。

3代将軍の家光は徳川幕府を盤石にした人ですが、彼は祖父である家康を本当に崇拝していました。その気持ちが強かったからこそ、家康が始めた朝鮮王朝との交流を大事にしました。

結果的に家光は熱心に朝鮮通信使との交流を促進させました。このように、家康や家光といった重要な将軍たちが朝鮮王朝との関係を良好に導いたので、以後も徳川将軍は朝鮮王朝と交流を続けました。朝鮮王朝も、北の異民族から攻められることが多く、東の隣国の日本とは友好関係を築いておきたかったのです。

ただし、朝鮮通信使を迎えるにあたり莫大な経費がかかったので、幕府や沿道の各藩の負担は大変でした。それで、朝鮮通信使を招くことが徐々に減り、最後の12回目は対馬で国書の交換をするという易地聘礼を行なっています。

さらに、1867年に幕府は朝廷に大政を奉還して、徳川政権が終わってしまいます。朝鮮王朝としては徳川幕府と仲良く交流していましたので、その徳川幕府を滅ぼしたということで、明治新政府との関係は良くありませんでした。

改めて考えてみると、1603年に徳川幕府ができてから1867年に徳川幕府が終わるまでの264年間、日本と朝鮮半島の仲がよかったというのは特筆すべきことです。世界のどの地域でも隣国同士というのはいろいろとトラブルを抱えるものですが、徳川幕府と朝鮮王朝はお互いに信頼しあっていました。両国の友好に貢献した雨森芳洲は、『互いにあざむかず争わず』ということを信条にしていましたが、この言葉が本当に生きていたと思います。お互いに信頼関係をもって隣国と付き合ういうのが、平和の一番の礎ではないでしょうか。

 

文=康熙奉(カン・ヒボン)
コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/

2016.06.09