第1回 好奇心旺盛な少年時代
長く新作が発表されていないペ・ヨンジュン。しかし、彼に敬意を表しているファンは今も多いことだろう。かつて「愛してるっ!!韓国ドラマ」誌に掲載された「ペ・ヨンジュン 過去への旅路」の記事を再構築して、あらたに「ロコレ」で連載することになった。彼の堂々たる人生を年代順にたどっていくことにしよう。
内向的で親に心配をかけていた
人は何歳の頃から自分が誰だかわかるのだろうか。
あるいは、幼い頃の記憶は何歳から思い出せるのか。
人それぞれにまったく違うだろうが、ペ・ヨンジュンの場合、記憶しているのは家の中でいつも1人で遊んでいる自分自身だったという。そういう意味では、とても内向的な子供だった。
2005年8月に三度目の公式来日をしたとき、ペ・ヨンジュンはテレビ朝日系の「徹子の部屋」に出演したが、その際に「あまりに内向的で親に心配をかけていました。だからこそ、自分は変わらなければいけないのかな、と思いました」と語っていた。
親に心配かけていることを申し訳ないと思うような利発さを、すでに幼い頃から持ち合わせていた。
そのクレバーな性格は今も変わらない。まさに、人間の原点はその幼年時代にあるといえるだろう。
大河にもたとえられるペ・ヨンジュンという生き方・・その源流を知るためにも、ゆっくりと時間をさかのぼってみよう。そこには、ペ・ヨンジュンを彷彿させる様々なエピソードが浮かび上がってくる。
親の手に負えない子供
ペ・ヨンジュンは1972年8月29日にソウルの中区で生まれた。家は東大門(トンデムン)市場に近い龍頭(ヨンドゥ)洞にあった。そこは下町の雰囲気を残す賑やかな地域だった。
1972年というと、日本では第二次ベビーブームの真っ只中だった。つまり、戦後すぐのベビーブームに生まれた人たちが20代に成長し、結婚ラッシュとなって多くの子供が生まれたのだ。
それは韓国もまったく同じで、1945年に植民地支配から解放されてからベビーブームとなり、その子供たちが成人して1970年代前半に第二のベビーブームが起こった。つまり、ペ・ヨンジュンの世代は人口が多く、学校は常に生徒であふれかえっていた。それだけ競争にさらされ続けたのだ。
しかし、ペ・ヨンジュンは人と争うことを好まず、1人で静かに遊んでいるのが好きな子供だった。
とはいえ、幼い頃からペ・ヨンジュンは親の手に負えなかった。それは彼がきかん坊だったからではない。
むしろ、素直で親の言うことをよく聞いた。それでは、なぜ親を困らせたのか。実は、度がすぎるほど好奇心が旺盛だったからだ。
とにかく、ペ・ヨンジュンはなんにでも「なぜ」という疑問を持った。
なぜ、そうなっているのか。
なぜ、こうならないのか。
たとえば、男の子が好きな組み立て式のおもちゃ(日本でいえばマジンガーZのキャラクターのようなもの)で遊んでいると、それがどんな原理で組み立てられているのかが気になって仕方がなかった。
そうなると、どうしても分解したくなる。ペ・ヨンジュンは屋根裏部屋にこもり、ドライバーとペンチを持って早速解体作業に入るのだった。
好奇心のかたまり
母が急にいなくなった我が子を見つけたとき、屋根裏部屋は散らかった部品で足の踏み場もないほどだった。
分解方法をひと通り学ぶと、今度は組み立ててみたくなる。好奇心はとどまるところを知らない。図面に目を凝らし、接着剤を使いまくって、飛行機、戦車、自動車などを1日中でも組み立てて遊んだ。
普通の男の子なら、外で砂遊びやサッカーなどで遊ぶ。けれど、ペ・ヨンジュンはむしろ誰にも干渉されずに1人で思う存分に遊ぶことが好きだった。
そうはいっても、やはり男の子である。やんちゃな面もあった。
6歳のときには、1歳下の妹の鼻の穴に豆を入れてしまって大騒ぎを起こしたことがある。豆は穴の奥深くに入ってしまったようで、まったく出てこない。
結局、妹の鼻がパンパンに膨れ上がってしまい、病院に駆けつける騒動となった。ムチによる仕置きを受けたのも仕方がなかった。
小さい頃からテレビを見るのが大好きだった。1人でいることが好きだったペ・ヨンジュンにとって、テレビは何でも教えてくれる先生にも似ていた。
ドラマを見ていて不思議だったのは、どんな大人も「掛けで」というとお金を払わずに店を出ていけることだった。
まるで魔法の言葉を見つけたような興奮を覚えたペ・ヨンジュンは、実際に駄菓子屋で好きなお菓子を「掛けで」というたった一言で持ち出してしまった。しかし、駄菓子屋のおじさんから事情を聞いた母は烈火のごとくおこり、ペ・ヨンジュンは手のひらが真っ赤になるほど叩かれた。
楽しかった牧場生活
ペ・ヨンジュンの一家に大きな変化が訪れたのは、彼が小学校3年生のときだった。父が脱サラをして天安(チョナン)で牧場経営を始めたのである。チョナンはソウルの南90キロほどの距離にある地域だ。
とりあえず父だけ単身で天安に行き、ペ・ヨンジュンと母、妹は引き続きソウルの自宅に残った。
けれど、週末や長期の休みになるとペ・ヨンジュンは天安へ行き、牛や豚の世話を手伝った。
都会の生活しか知らなかった彼にとって、牧場の生活は刺激に満ちていた。家が密集したソウルの下町育ちだけに、自然に恵まれた環境は楽しくて仕方がなかった。
また、父から空気銃の使い方を教えてもらい夢中になった。自分ながら射撃の才能があると思い込み、将来は狙撃選手になろうかな、と思うほどだった。
男の子だから、当然冒険心がある。特に子供向けの冒険小説が好きだったペ・ヨンジュンは、牧場のどこかに莫大な財宝が隠されているかもしれないと空想し、牧草地のあちこちを掘ったりして楽しんだ。
そのまま牧場での暮らしが続けば、どんなに楽しかったことか。
しかし、それは長く続かなかった。父の牧場経営が失敗してしまったからだ。
借金の返済のために龍頭洞の自宅を売却しなければならなくなったのは、ペ・ヨンジュンが小学5年生のときだった。
これは本当にショックな出来事だった。生まれたときからずっと住んでいたところだけに、人一倍の愛着があった。
しかし、一家はまだ開発途上だった江南の明逸(ミョンイル)に引っ越した。ペ・ヨンジュンも子供ながら、一家の生活が苦しいことを実感せざるをえなかった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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