【時代劇が面白い!】李芳遠(イ・バンウォン)が即位して太宗(テジョン)になった!

1392年に朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)。彼が初代王になる過程で、政敵の排除などで一番貢献した息子が五男の李芳遠(イ・バンウォン)だった。しかし、李成桂が後継者に指名したのは異母弟だった。


第一次王子の乱
李成桂(イ・ソンゲ)には合計で8人の息子がいた。
第一夫人である神懿(シヌィ)王后との間に6人の息子がいた。上から、芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)である。
そして、第二夫人の神徳(シンドク)王后との間に、七男の芳蕃(バンボン)と八男の芳碩(バンソク)がいた。
8人の息子たちの中で、一番実力があったのが李芳遠(イ・バンウォン)だった。李成桂が新しい王朝を建国するうえで李芳遠の活躍が目覚しかった。
「父上もわかってくれているだろう。後継ぎとして準備をしておかなければ……」
李芳遠はそう自覚していたが、思惑は大きく外れてしまった。李成桂は、第二夫人の神徳(シンドク)王后との間に生まれた八男の芳碩(バンソク)を後継ぎに指名したのだ。この決定に、李芳遠は激しい怒りを抱いた。

「兄上たちならばまだ納得できるが、なんの功績も残していない芳碩が後継者になるなんて許せない」
李芳遠は、芳碩を擁護していた高官の鄭道伝(チョン・ドジョン/朝鮮王朝の基盤を作ったとも称される功労者)を1398年に殺害し、次に異母弟の芳蕃と芳碩の命を奪った。こうして、後継ぎの座をめぐって王子たちが殺しあった「第一次王子の乱」は李芳遠の勝利で終わった。
事件に一番衝撃を受けたのは、芳碩を可愛がっていた李成桂だった。彼は失意のまま王位を退いた。朝鮮王朝設立からわずか6年後のことだった。
反乱の首謀者である李芳遠は、自ら王になろうとはせず、二男の芳果を王に推薦した(長男の芳雨は、すでに死んでいた)。芳果は2代王・定宗(チョンジョン)となるが、実質的な権力は李芳遠が握っていた。
定宗には子供がいなかったために、次に王になるのは李芳遠だと誰もが思っていた。しかし、李芳遠の兄である四男の芳幹も王位を狙っていた。
「芳遠をどうにかできれば次の王位は俺のものだ」
芳幹は李芳遠を討つ時期を狙い、力を蓄えていった。しかし、芳幹の不穏な動きを察知した李芳遠もまた、戦の準備を進めていた。

1400年、2人の王子の戦いがついに始まった。しかし、高麗時代から軍事を任されてきた李芳遠の軍に、芳幹は太刀打ちできなかった。戦いに敗れた芳幹は島流しにされ、もはや宮中で李芳遠に逆らえる人物はいなくなった。これが「第二次王子の乱」だ。
こうなると、次に身の危険を感じたのが定宗だった。
「早く王位を芳遠に譲らなくては、いずれ殺されてしまう……」
そう感じた定宗は李芳遠に王位を譲り隠居した。
李芳遠は1400年に3代王の太宗(テジョン)として即位し、絶対的な実力者として王権の強化に努めた。
李芳遠は、故郷の咸興(ハムン)で引退生活を送っていた父の李成桂に何人も使者を送った。しかし、李芳遠に対する怒りの収まらない李成桂は、その使者をことごとく殺してしまった。この出来事によって、行ったきり戻ってこない人のことを「咸興差使」と呼ぶようになった。
1402年、意地を通していた李成桂だが、信頼する無学大師の説得を受けて、李芳遠と和解した。そして、1408年に波瀾万丈の人生を終えた。

名実ともに李芳遠は3代王・太宗(テジョン)となった。彼は、王族の私的な兵の所有を禁止した。これは、王位をめぐって王族間で争いが起きるのを防ぐためだった。
李芳遠は王位を無理やり奪ったイメージが強いが、李成桂が建国した朝鮮王朝の基盤を固めたと高く評価されている。
また、李芳遠は1418年までの間に4回も譲位騒動(後継者に王位を譲ること)を起こしている。
これは余力があるうちに王位を退いて、上王として政治を裏で操ろうと考えたからだ。1418年、李芳遠は三男の忠寧(チュンニョン)に王位を譲り、忠寧が4代王・世宗(セジョン)として即位した。
このように李芳遠は世宗に王位を譲りながらも、王権の大部分を掌握していた。実質的には李芳遠が王位に就いているのと変わらなかった。このように、最後まで最高実力者だった彼は、1422年に55歳で世を去った。

構成=「ロコレ」編集部
コラム:ロコレ提供 http://syukakusha.com/

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