英祖(ヨンジョ)は意地になって、「たったいま世子(セジャ)を廃したのだが、史官はちゃんと聞いていたのか」と大声を出した。史官といえば正式な記録を残す官僚である。英祖は、自分の言葉を正式な文書に残すことをはっきりと要求した。
懇願する世子
思悼世子(サドセジャ)は泣き続けていた。震えがとまらず、顔は恐怖におののいていた。
彼はいったん英祖の前を離れて、外に出ていた側近たちに近づき、「どうすればいい? 誰を頼ればいいのか」と尋ねた。
側近の1人が「再び殿下の前に出て処分を待つしかありません」と答えた。
確かに、その通りだった。この場から逃げても、有利になることは一つもなかった。
思悼世子は泣きながら再び前庭に出て、ひざまずいて地面に額をこすりつけた。
「過ちを改めて今後は正しく生きますので、どうか許してください」
思悼世子は何度も何度も哀願した。
すると、英祖は驚くべきことを話し始めた。
「映嬪(ヨンビン)が余になんと言ったと思う? そなたがいかに世子にふさわしくないかを泣きながら訴えてきたのだ。もはやこれまでだ。そなたが自決しないかぎり、この国は安泰とならない」
この言葉を聞いた誰もが信じられない思いだった。
英祖が言った“映嬪”とは、思悼世子の生母の映嬪・李(イ)氏のことある。英祖の側室で、思悼世子の他に3人の王女を産んでいる。
<生母が、こともあろうに息子の乱行を訴えてくるとは……>
重臣たちも映嬪・李氏の真意をはかりかねたが、英祖が思悼世子の自決を決意した背景には、思悼世子の生母の言葉が大きな影響を与えていたのである。
たまらずに、重臣の1人が進み出た。
「おそれながら殿下におかれましては、王宮の奥にいる1人の女性の言葉によって、国本(クッポン/王の後継者のこと)を動揺させようとなさるのですか」
この問い掛けは、英祖のそばにいた多くの人たちの心にも響いた。一同がうなずく中で、英祖だけが怒りを増幅させて思悼世子をにらみつけて刑の執行を迫った。
もはや誰も英祖を制止することはできなかった。彼は息子が自決しないと見なすと、米びつをもってこさせた。
「お願いです。命だけは助けてください」
思悼世子は最後に哀願したが、英祖はそれを聞かずに息子を米びつに閉じ込めさせた。そばにいた誰もが、その異常なやり方に涙を流さざるをえなかった。
王朝の未来を担う世子が、宮中で米びつに閉じ込められて泣き叫んでいた。
しかも、それを命じたのが、実の父である王だった。重臣たちが信じたくない気持ちになるのも当然だった。
その中で、英祖だけは鬼のような形相で米びつをにらみつけていた。やがて彼は「絶対に米びつを開けてはならない」と厳命して寝殿に戻っていった。
米びつからもれてくる嗚咽(おえつ)……。それは、王宮にいる誰もの心を苦しくかきむしった。
英祖には、思悼世子を許す気持ちが毛頭なかった。息子を米びつに閉じ込めた翌日の1762年閏5月14日に、宦官の朴弼秀(パク・ピルス)と尼僧の假仙(カソン)が処刑された。2人は荘献をそそのかした罪に問われたのだ。
罪状は、朴弼秀が「世子に従って遊興して乱行に加担した」であり、假仙が「もともと尼僧なのに髪を長くして宮中に入り世子を誘惑した」というものだった。2人は即座に斬首されたのだが、他にも世子と遊興した妓生(キセン/宴席で歌や踊りを披露する女性)の中で5人が処刑されている。
本当に哀れなのは妓生たちである。彼女たちは仕事で思悼世子の宴席に出ていただけなのに、完全にとばっちりを受ける形になった。
罪もなき彼女たちを処刑するほど、英祖の思悼世子に対する怒りはまったくおさまっていなかった。
それは、6日が経った閏5月19日になっても同様だった。この日になって、英祖は思悼世子を補佐していた側近のほとんどを罷免した。これは思悼世子の復帰が絶対にないことを明確に示したものだった。
(第5回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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