朝鮮王朝の法律に沿って王が決定されたように、王妃もまた厳格な法を適用されて決められていました。それだけに、王妃を廃妃にするのは容易ではないのですが、実際には多くの王妃が廃妃になっています。
理不尽な廃妃
一番悲惨なのは、夫の廃位にともなって廃妃になったケースです。10代王・燕山君(ヨンサングン)の正妻だった慎(シン)氏、15代王・光海君(クァンヘグン)の正妻だった柳(ユ)氏が該当します。
彼女たちには尊号が贈られませんでした。
それによって、歴史的にも「廃妃・慎氏」「廃妃・柳氏」としか呼ばれません。「廃妃」という冠が永久についてまわるのです。
また、6代王・端宗(タンジョン)の正妻だった定順(チョンスン)王后も、夫が叔父の世祖(セジョ)から王位を強奪されたので廃妃になっています。
そのとき、定順王后は15歳でした。
亡くなったときは81歳です。
定順王后は元王妃として65年も生きたのです。
一方、理不尽な形で廃妃となったのは、11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正妻だった端敬(タンギョン)王后です。
本人に落ち度はまったくなかったのですが、彼女の親族に燕山君の妻や側近がいるという理由で、中宗が望まないのに高官たちによって廃妃が決められてしまいました。庶民から同情を多く集めたのも当然のことでした。
王の寵愛を失って離縁させられたのが、9代王・成宗(ソンジョン)の二番目の正妻だった斉献(チェホン)王后と、19代王・粛宗(スクチョン)の二番目の正妻だった仁顕(イニョン)王后です。
しかし、二人の廃妃後の運命は決定的に違います。
まず、斉献王后は廃位のあとに死罪になっています。
それに対して、仁顕王后は劇的な形で再び王妃に復帰しています。
両者には天と地ほどの開きがありますが、仁顕王后が王妃に復帰できたのは人徳があったからでしょう。
彼女は廃妃になって実家に戻った際も、「私は罪人だから」という理由で離れの粗末な小屋で暮らしたと言い伝えられています。
その謙虚な生き方が後に粛宗の気持ちを改めて動かし、彼女はなんとか王妃に復帰できたのです。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:韓流テスギ