韓国の地方を旅していると、元気良く食堂を切り盛りしている女性たちによく会う。エネルギッシュで働き者。そんな姿を見ていると、「この国は女性が支えているんだなあ」とつくづく思えてくる。しかし、かつての女性たちは身分的にもつらい境遇だった。
朝鮮王朝の国教は儒教
身内の話から始めたい。
私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)の伯父(母の兄)は済州島(チェジュド)出身で初めて日本で医者になった人だと聞いていた。東京の医大に入るため、祖父は田畑をかなり売ったそうだ。
伯父の妹である、私の母。小学校も通わせてもらえず、海女になった。
「小さいときから年寄りの面倒ばかり見ていた」
後年、母はそう言っていた。
同じ両親から生まれた息子と娘なのに、息子のためには土地を売って学問を積ませ、娘は学校に通わせずに働かせる。
恐ろしいほどの落差だ。
当時はそれが当たり前とはいえ、母が気の毒で仕方がない。
その母は1918年の生まれ。朝鮮王朝が滅んで8年後だ。
しかし、世相は朝鮮王朝時代とほとんど変わらなかっただろう。
1392年から1910年まで続いた朝鮮王朝。この時代は儒教が国教だった。
儒教は、人間の序列を認める。
年下より年上、無学より学識者、そして、女より男が上、というわけだ。
その結果、朝鮮王朝時代には男尊女卑が貫かれた。
朝鮮王朝の前の高麗王朝(918~1392年)では、国教が仏教だった。
仏教には平等思想があり、高麗王朝時代には女性の権利も相応に守られていた。
しかし、朝鮮王朝に移ってから女性の立場は変わった。
朝鮮王朝では父親が家族の中心となる家父長制度が厳格に守られ、女性の身分は低くなった。
学問をおさめる機会もなかった。しかも、女性は全国規模の官僚登用試験である科挙の受験資格もなかった。
この時代の女性を象徴する言葉が「三従之道」「出嫁外人」「七去之悪」である。
順に説明しよう。
「三従之道」は、「子供のときは親に従い、結婚したら夫に従い、老いたら息子に従う」ということだ。
女性は「従うこと」でしか生きる術(すべ)がなかった。
「出嫁外人」は、嫁いで実家を出た女性はもはや実家の人間ではないという意味だ。「外人」という単語が生々しい。これは、実家に絶対に戻ってはいけないという戒めにもなっていた。
さらに、結婚した女性を苦しめたのが「七去之悪」である。
これは、夫の側が妻を平気で離縁できる7つの条件をさしていた。
「七去之悪」の7つを列記してみよう。
・夫の両親ともめてしまった
・息子を産まなかった
・人をだます性格である
・間違った行ないをした
・あまりに嫉妬深い
・病弱である
・おしゃべりである
いかがだろうか。多くの条件は「言いがかり」である。「おしゃべり」や「嫉妬深い」で離縁されては、妻もたまったものではないが、19代王・粛宗(スクチョン)のように本当に「嫉妬深い」を理由に正妻を離縁した王もいた。
実際、朝鮮王朝時代の妻は、夫から勝手に離縁されても文句が言えなかった。そればかりか、女性は再婚することも許されていなかったのである。社会制度というものが、女性にはあまりに冷たかった。
そんな朝鮮王朝時代の社会通念は、韓国が建国された後もしばらくは残っていた。わかりやすく言えば、男尊女卑の風潮が根強かったのである。
しかし、逆風は強い意志を育てる。
差別されてきた女性が弱いかと言うと、決してそんなことはない。口論になったら男性は絶対に女性に勝てないし、生活力のない夫に代わって食堂を経営する逞しい女性は韓国中にたくさんいる。
私の母も弱くなかった。普段は優しく日本語で話していた母も、父と大喧嘩になったときは、済州島の強い訛りが入った韓国語で父を徹底的にやりこめていた。
何よりも、韓国ドラマを見れば一目瞭然である。「鉄の女」が次々に出てくるではないか。あれは、誇張でも何でもない。肩書に頼って見かけ倒しになっている男を凌駕する女性たちが、韓国社会を支えていると言っても過言ではないのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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コラム提供:韓流テスギ