660年、百済が新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた。都の扶余(プヨ)は7日間燃え続けた。百済の王家も崩壊した。ただし、復興を信じて局地的に戦ったのが鬼室福信(キシルポクシン)である。百済最後の国王であった義慈王のいとこだった。
百済の暫定的な王
鬼室福信は生き残った兵を巧みに編成し、各地でゲリラ戦を展開した。戦功も多く、復興軍の気勢は上がった。
鬼室福信は特使を日本に派遣し、義慈王の息子の豊璋(ほうしょう)を帰国させてほしいと要請した。
豊璋が日本に渡ったのは631年。以後、弟の勇と一緒に豊璋は日本に住み、百済と日本の橋渡し役を務めた。
日本から見れば人質なのだが、豊璋には日本の国情を探るという目的もあった。
豊璋は中国の故事に精通していて、朝廷でも重用されていた。
当時の朝廷には、百済系が一定の勢力を保っていた。そうした事情もあり、朝廷は豊璋の帰国を許可した。
しかも、豊璋に5千の兵を付けた。
豊璋は多くの兵を従えて故国に戻り、鬼室福信と合流した。662年5月に即位式を行ない、復興軍の中で豊璋は百済の暫定的な王になった。
鬼室福信は豊璋の臣下として仕えた。
復興軍は都の奪還を狙った。
水を差したのが鬼室福信と豊璋の内紛だった。
鬼室福信は軍事面で統率力があったが、豊璋は30年近くも異国に住み、軍事がよくわからなかった。
軍事面を鬼室福信に任せれば良かったのに、豊璋は自ら軍を率いようとした。しかし、戦略的な失敗が多かった。
かくして、両者の対立が深まったが、豊璋が鬼室福信を急襲して斬首した。
しかし、この内紛は豊璋自身にも致命傷となった。
軍事の統率者を失った復興軍は勢いが弱くなった。豊璋の依頼によって、大和の朝廷は援軍と船400隻を復興軍に加えた。
663年、白村江(はくそんこう/韓国では「錦江」と呼ばれる)で百済・日本が新羅・唐を相手に戦った。
日本はまだ水上の戦いに不慣れだった。船400隻も唐船に比べると相当に小さかったという。
それなのに、豊璋は無鉄砲すぎた。戦力の違いをよく見極めようともせず、カラ元気だけは勇ましかった。
豊璋は日本の諸将と一緒に気勢をあげた。
「我らが先に攻め込めば、敵は驚いて退くだろう」
相手が弱ければその通りだが、敵は中国大陸を支配する大帝国の唐なのである。
唐は、突っ込んできた日本の水軍を左右から挟み打ちにした。
このときの状況を「日本書紀」は、「たちまち日本の軍は敗れてしまった。川に落ちて溺死する者が多かった。百済王の豊璋は数人と一緒に船に乗って高句麗へ逃げた」と記している。
威勢が良かったわりに、豊璋はいざとなって真っ先に逃げた。所詮、戦いを指揮する器ではなかったのだ。
こうして、百済復興は夢と散った。
水軍が白村江の戦いで敗れたあと、大和の朝廷が最も恐れたのが、新羅と唐が襲いかかってくることだった。
朝廷は九州北部を初めとした日本海側の沿岸部に防御用の築城を進めた。
防衛の総仕上げが大津への遷都だった。近江の大津は交通の要衝で、敵の攻撃を受けたとき東に避難するのに都合が良かった。
朝廷は都を667年から672年まで大津に置いたが、672年に壬申の乱が起きて大津宮は廃墟となった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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コラム提供:韓流テスギ