古代の日本列島……人の往来はどうなっていたのか。東からは誰も来ない。地球で一番大きな海が人を寄せつけなかった。来るのは、北と南と西からだ。特に、西から来る人が圧倒的に多かった。
古代人の往来
西には大陸の文明があり、列島を孤立させない半島があり、さらに、人々の渡海を助ける飛び石のような島々があった。
その地形は地球の奇跡と言っていい。とりわけ、半島の存在が大きかった。なぜなら、そこには大陸の文明を伝えてくれる人々が住んでいたからだ。
彼らは、続々と日本にやってきた。最初は稲作という生活手段を持ち込んできた。これが人口を激増させる要因となった。
次に、鉄器を運んできた。農業の発達や武力の整備をもたらした。
続いて、漢字や仏教を……。
ただし、一方通行ではなかった。列島からも大勢の人たちが海を越えて半島の南部に住み着いた。特に、九州北部から渡海した人たちが多かった。
彼らは、大陸の人たちから「倭」と呼ばれた。その漢字は「小さい人」「曲がった人」をさすが、大陸からすれば、「風俗がちょっと違う人間」くらいの意味合いだったのではないか。
半島の南部は居心地が良かった。倭人は貴重な労働力となり、地域の発展に貢献した。といっても、故郷の九州北部を忘れたわけではない。かくして、倭人は半島南部と九州北部を行ったり来たりした。
海は障害にならなかった。壱岐と対馬という中継の島があったことが大きかった。
当時の人たちが、「1500年もすると、パスポートという統治者が認めた身分証明証がなければ海を渡ることもできない」と知ったら、未来がどんなに不便に思えることだろうか。
パスポートは、海外に行ける便利な渡航証明書ではない。自分を国家に従属させる轡(くつわ)なのである。
古代人と現代人と、どちらが奔放な生活圏を持っていたか。それは言うまでもないことだ。国家の統治が厳しくなって人間が失ったのは「どこへでも行ける自由」だった。
その自由を持たない現代人が、古代の人々の往来を想像する。限定的にならざるをえない。
1万8千年前から数千年間の氷河期、日本列島はまだ大陸とつながっていて、日本海が内海だった。
氷河期が終わって氷が溶けたとき、水位が上がってユーラシア大陸の東端が切り離された。日本列島の誕生である。
ポツンと取り残された島々。海に囲まれた僻地であったが、地理的にはそれが幸いした。外敵がいない別天地が誕生したのだ。しかも、朝鮮半島を通して適度な距離感で大陸とつながっている。
地図で朝鮮半島の形を見ていると、庇から今にもこぼれ落ちそうな水滴に見えてきた。あるいは、大陸から突き出した匕首か。
いずれにしても、ちょうどうまい具合に、半島の先は日本に向かっている。
「いつでも気軽に来いよ」
親しい友人関係のように、半島と列島はお互いに寄り添っている。
列島は東に向かって孤立しているから、その分、興味が西に引っ張られる。
その西にある朝鮮半島の情勢は、紀元前から紀元後にかけてどうなっていたのか。
神話時代を含めると、朝鮮半島の国家は檀君(タングン)朝鮮、箕子(キジャ)朝鮮、衛満(ウィマン)朝鮮と続いた。
3つの朝鮮を合わせて「古朝鮮」という。
神話の助けを借りなくても存在が認められるのは衛満朝鮮だけ。考古学的には、朝鮮半島の歴史は衛満朝鮮から始まる。
国名の衛満は人名だ。古代中国の燕から亡命してきて朝鮮半島北部を支配下に置いたとされる。さらに欲張って領土を広げようとした衛満。漢の武帝の逆鱗に触れて滅ぼされたようだ。
紀元前194年から紀元前108年まで。それが衛満朝鮮の寿命だ。人間であれば長いが、国となれば短い。
衛満朝鮮が紀元前108年に滅んで、漢が朝鮮半島北部に四郡の直轄地を置いたが、局地的な統治であって広い地域を支配下に置いたわけではない。
満州(現在の中国東北部)では扶余(プヨ)国が強くなり、同系の勢力から高句麗(コグリョ)が建国された。
朝鮮半島の中央部から南部にかけては、各部族が集まっていくつかの連合体ができていた。まだ国家と言える規模ではないが、一応は馬韓(マハン)、弁韓(ピョナン)、辰韓(チナン)と称した。
部族が何度も離合集散を繰り返しているうちに、強い部族が中心になって少しずつ国家と呼べる政治組織に集約されていった。辰韓の1つだった斯盧(サロ)が強大になって新羅(シルラ)が誕生し、馬韓の中で伯済(ペクチェ)が主導権を握って百済(ペクチェ)が生まれ、弁韓も伽耶(カヤ)に発展していく。
こうして朝鮮半島の勢力図がはっきりしてきた。
朝鮮半島北部から満州にかけて領土を大いに広げた高句麗、朝鮮半島の南西部という肥沃地帯に恵まれた百済、日本に近い朝鮮半島南東部を統治した新羅。3つの国家は国境を接しながら激しく争って三国時代を形成した。
さらに……。
三国に準じたのが伽耶であった。朝鮮半島南部の洛東江(ナクトンガン)沿岸地域に広がっていた。
この伽耶は日本と関係が深かった。
日本では、3世紀から4世紀にかけて近畿に強い政治勢力があった。
それは今では「ヤマト政権」と呼称されている。
そのヤマト政権は鉄を使うことで自らの勢力を拡大していった。しかし、当時の日本では鉄製品をつくりだす技術がなかった。
ならば、どこから鉄を手に入れていたか。
頼ったのが伽耶だった。
伽耶の中心地域と目される洛東江の下流域では、近年になって発掘調査が急ピッチで進んだ。
その結果、伽耶では豊富に鉄製品がつくられていたことが立証された。
先進の製鉄技術を持っていた伽耶だが、中央集権体制を築くには至らず、部族の連合体のような政治形態を取っていた。
高句麗がしきりに南下してきて伽耶は強い圧迫を受けた。
伽耶は、鉄の鎧や兜など強固な武具を持っていた。
しかし、人手だけが足りなかった。
つまり、鉄の鎧や兜はあっても、それを使う人が不足していたのだ。そこで頼ったのが日本だった。
こうして、ヤマト政権と伽耶はお互いに足りないものを補いあった。ヤマト政権は鉄を、伽耶は人手を……。
日本から伽耶に向かった人々は兵力となって高句麗と戦った。
ヤマト政権にとっても、伽耶が高句麗に滅ぼされると死活問題だった。鉄を失うことになるからだ。
それを防ぐためにも、日本から伽耶に行った人々も必死に戦ったことだろう。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:韓流テスギ