三姓穴の聖域化は、朝鮮王朝時代の1526年、当時の李壽童牧使の時代から推進された。穴のまわりに石で垣根をつくり、北側に紅門と碑を建て、春と秋には三姓を受け継いだ一族によって祭祀を行ない、11月には島民による追慕式も開かれるようになった。
地元の名所を大切にする気持ち
1698年には柳漢明牧使によって穴の東側に三乙那の廟が建てられ、神人の位牌を祀ったりした。それが現在の三姓殿であるが、建物自体は1971年に新築されたものである。
他に、1849年には張寅植牧使によって崇報堂も建てられ、学業を錬磨する場所として使われた。
要するに、歴代の牧使は済州島統治をやりやすくするために、民衆が聖地と考える三姓穴をあえて尊重してきたのである。この穴が今に至るまで残ってきたのは、ごく政治的な理由による。
園内を散策していると、桜が見事に咲き誇っていた。
旅立つときにわが家に近い公園の桜はまだ三分咲きだった。さらに、成田空港に向かう途中の京成電車の窓から見た成田市内の桜は、まだ一輪も花開いてはいなかった。しかし、済州島の桜は満開だった。
一日で三分咲き、つぼみ、満開という三種の桜を見たことになる。そのときばかりは、随分と遠いところにやってきたなあという感慨が沸き上がってきた。
帰り際に正門をくぐるとき、案内係のアガシ(若い女性)がそばに立っていて愛想がよさそうだったから話しかけてみた。
「穴だけ見てきました」
「ただの穴ではありません。その1つは、海まで続いていると言われているんですよ」
「海まで? ほんとに?」
「そういう言い伝えなんです。海とつながっているなんて神秘的ですよね」
「あとの2つは?」
「残念ながら穴がふさがってしまっているようです」
「それでただの窪みだったのか」
「でも、三姓穴の重要性が損なわれているわけではありません。私たちにとっても神聖な場所なんです」
アガシは、一生懸命に三姓穴の意味合いを見知らぬ旅行者に説明しようとしていた。けなげに地元の名所を大切にする気持ちに頭が下がった。「ただの穴を見るだけ」と言ってしまって失礼なことをした。
反省の意味を込めて、別れ際に「済州島はいいところですね」と言った。観徳亭といい三姓穴といい、実に郷土を愛する人たちが観光客の応対をしている。人の良さがこの島の一番の自慢かもしれない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)