光海君(クァンヘグン)は、時代によって評価がわかれる国王である。クーデターで王位を追われているので、暴君としての悪評が高かった時期もあれば、実は暴君どころか名君であったという評価が出ている時期もある。果たしてどちらが光海君の正体なのか。
側近たちがやり過ぎた
父親の宣祖(ソンジョ)が1608年に世を去ったことによって、次男であった光海君(クァンヘグン)は15代王として即位した。本来であれば、長男の臨海君(イメグン)が王位を継承すべきだったのだが、彼は素行に問題があるということで世子(セジャ)に指名されなかった。
ただし、光海君の王権は安定していなかった。兄の臨海君が光海君に批判的な態度を見せて王位を奪還する構えを見せていたし、宣祖の正室であった仁穆(インモク)王后が産んだ永昌大君(ヨンチャンデグン)も、正統的な後継ぎとしての立場を持っていた。
永昌大君はまだ2歳だったので王となることはできなかったが、彼が成長した際には側近たちが動いて、光海君の王位を脅かす可能性が高かった。いわば、光海君は薄氷を踏む中で王として生きていたのである。
その焦りもあったのだろう。
また、側近たちがやり過ぎた面もあったはずだ。
結果的に、光海君は1609年に臨海君を自害に追い込み、さらに1614年に永昌大君を殺害している。
王座を守るためとはいえ、兄弟の命を奪ったのはあまりにも非道であった。
しかし、朝鮮王朝の歴史を見ると、親族を殺して王位を守った人物は何人もいる。
3代王・太宗(テジョン)も弟たち2人を殺害しているし、7代王・世祖(セジョ)は甥から王座を奪って自害に追い込んだうえに、弟たちの命も奪っている。
つまり、朝鮮王朝の歴史というのは王家の争いの結果でもあったわけで、その点では光海君だけが責められるわけではない。
しかも、太宗と世祖は実力を持った大王として業績を残しており、光海君もそれに続くことはできたはずである。
実際、光海君は政治的に大きな業績をいくつも残している。
外交面では、強大な後金の侵略を防ぐために、巧みな立ち回りで後金との関係をうまく保っていた。
これによって、朝鮮半島は後金の侵略を防ぐことができていた。
また、庶民の減税につながる大同法を首都の周辺から実施して、後には全国に拡大するつもりであった。
大同法は、庶民にとっては間違いなく善政であった。
この法律を積極的に進めようとした光海君は、名君と呼ばれても不思議はなかった。
ただ、地主を始めとする特権階級には増税となり、その点で光海君が恨みを買ったのは事実である。
結局、光海君は兄弟と血なまぐさい骨肉の争いを起こしたという意味での「罪」があり、逆に、政治的に業績をあげたという「功」がある。
ただ、彼が一番やってはいけなかったことは、宣祖の二番目の正室であった仁穆王后を幽閉して、大妃(テビ/王の母)の立場を取り消してしまったことである。
朝鮮王朝の中で、国王が大妃の身分を剥奪したことは一度もなかった。儒教を国教としている以上は、これは絶対にやってはいけないことだった。
それを光海君はやってしまった。
それを名目にして彼はクーデターを起こされたわけであり、その点で光海君が廃位になったのもやむをえない。
文=「韓流テスギ」編集部