「コラム」『二十五、二十一』で描かれた韓国のIMF危機とは何か(第2回)

ナ・ヒドは所属していたフェンシング部がIMF危機の影響で廃部になって他に移った

 

1980年代から1990年代にかけて「漢江の奇跡」と呼ばれるほどの経済成長をなしとげた韓国。しかし、浮かれている間に、足元を見失うような慢心が企業経営を狂わせていた。とりわけ、赤字体質にもかかわらず無闇に規模拡大に突っ走った財閥と、不正な巨額融資を繰り返した金融と、経済政策で失態を繰り返した政府の責任は大きかった。

 

銀行の再編
経済危機を乗り切るために金大中(キム・デジュン)政権が掲げたスローガンは「第二の建国」だった。朝鮮半島の南半分に大韓民国が建国されてから50年。その間に朝鮮戦争という最大の危機があったが、IMF(国際通貨基金)に緊急融資を受けた今回の事態を「朝鮮戦争以来の国難」と位置づけ、政府は新たな建国精神で危機を脱しようと国民に一致団結を呼びかけた。
「金を拠出して国家に貢献しよう」


そういうキャンペーンに呼応する人たちが後を立たなかった。金のトロフィーから金歯まで、志ある国民は率先して金が含まれているものを政府に差し出した。誰もが相当に危機意識をもっていたことは間違いない。
その非常事態体制の中で、平常時なら強い抵抗によって実現不可能なはずの改革が、次々と大胆に断行されるに至った。
学歴と人脈をフルに使い、一度できあがったシステムから多くの既得権をむしりとろうとするのが、それまでの韓国社会の慣例だったが、そんな甘い汁を生む体質は徹底的に改善させられた。

構造改革を成功させるための鉄槌は、まず金融改革に向けて振り下ろされた。
政府から金融行政をまかされた金融監督委員会は、徹底した市場主義の原則にのっとり、乱脈経営でいたずらに不良債権ばかり増やした銀行を容赦しなかった。つぶすべきは躊躇なくつぶすという方針を貫いたのである。
日本同様に韓国でも「銀行はつぶれない」と信じられていたが、そんな神話が通用する時代ではなくなっていた。
1998年6月、再建のメドが立たないという理由で、金融監督委員会は整理すべき対象として5つの銀行を公表した。この5行は即座に営業停止になり、金融の表舞台から姿を消した。
さらに、金融監督委員会は7つの銀行に対して「条件付き存続」の厳しい査定をつきつけ、抜本的な経営改善計画を提出させた。しかし、内容がおそまつと判断した時点で7行の経営陣をすべて辞任させる措置を取った。
金大中政権の心強い後ろ楯があるとはいえ、金融監督委員会の矢継ぎ早の強権発動は金融界を根底から震え上がらせた。

ただし、経営再建が可能な銀行に対しては、不良債権の処理を急がせるために果敢に公的資金を投入した。銀行の整理に費やした分も含め、政府が投入した公的資金の規模は、最終的には総額で157兆ウォン(約15兆7千億円)にものぼっている。
これほどの公的資金が投入される以上、各銀行の経営責任も厳しく問われなければならないのは当然のことだった。その過程で、歴史ある大手銀行も次々と合併による金融再編の嵐に巻き込まれていった。
結局、1998年の初めに金大中政権が発足したときには銀行が33あったのに、政権の5年間で18にまで再編されている。いわば、半分近くが整理、破綻、合併によって姿を消したことになる。


当然ながら、銀行員の大量失業が不可避となった。
IMF危機が表面化した1997年末の段階で銀行員は合計で11万人以上はいたのだが、4年後には7万人を切る人数にまで激減した。4万人以上が、誰もが羨むはずだった銀行の安定した職を失ったのである。
普通なら、どの国の政権も経済の柱である金融界を大量失業に追い込むような荒治療はできない。必要性はわかっていても、その影響の大きさに躊躇してしまうものだ。

しかし、金大中政権は公的資金投入の大前提として、銀行側の経営責任を徹底的に追求した。簡単にいえば、公的資金を受け入れた銀行の役員はことごとく退任させられているのである。そのうえで、新たな経営陣は慣例にとらわれない手法で徹底した合理化を進めた。効果はてきめんで、金融界の収益率は劇的に向上した。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

 

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コラム提供:ロコレ

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2022.12.07