新羅と唐の連合軍は、660年に百済を滅ぼしたあと、次に高句麗の攻撃を狙った。危機を感じた高句麗は、666年に援軍要請のための使節を日本に派遣した。その中に若光(じゃっこう)がいた。彼は高句麗の王族の1人だった。
東国の開発
日本の朝廷は高句麗の援軍要請に応じなかった。663年に白村江の戦いで大敗して、新羅・唐と関わるのはもうコリゴリだった。
若光が日本で失意の日々を過ごしている間に、高句麗は668年に滅んでしまった。若光は母国を失ったのである。
多くの高句麗人が難民となって日本に押し寄せてきた。若光にはもう帰るところがないので、彼は日本で骨を埋める覚悟を決めた。
よほど才能に恵まれていたのだろう。高句麗の王族ということで出自も良かった。若光は朝廷の中で出世していった。703年には、従五位下の官位を受け、外国の王族出身者に授けられる「王(こしき)」の姓(かばね)を賜った。
当時の朝廷の懸案事項は、東国の開発だった。
そこで、若光に白羽の矢が立った。
「高句麗の民を束ねて東国に向かってくれないか。開拓した土地はみんな君たちのものになる」
朝廷からこんな申し出を受けたことだろう。若光は高句麗の出身者たちを連れて船で東に向かい、海岸線に沿ってゆっくり進んで上陸の適地を探した。
船は伊豆半島をグルリとまわって相模湾に出た。
「ここがいい。上陸の準備をせよ」
若光が命令して船を停めたのが大磯だった。
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