日本が本格的な戦国時代に入ると、日本と朝鮮半島の交流も完全に途絶えてしまった。日本は国内が騒乱状態となって外交どころではなくなったし、朝鮮王朝は太平の世が続いて、感覚的にぬるま湯につかっているも同然だった。あえて面倒な外交に乗り出す気概もなかったと言える。
ソウル中心部にある李舜臣の像
朝鮮王朝が送った使節
朝鮮王朝の危機感の欠如は致命的だった。
豊臣秀吉が1585年に関白に就任した直後から大陸に攻め入る構想を持っていたのに、朝鮮王朝は隣国の事情にあまりに疎すぎた。
秀吉は1587年に九州を平定したが、そのときには中国だけでなくインドまで手中に収めると大言壮語するようになっていて、その意志を強く示すためにも朝鮮王朝の国王を挨拶に来させるように対馬の宗氏に命令していた。
「なにやら日本の雲行きが怪しい」
いくらぬるま湯が気持ちよくても、さすがに朝鮮王朝も日本の動向に疑心を持たざるをえなかった。
1590年、朝鮮王朝は正式な使節を日本に派遣した。表向きの理由は秀吉の天下統一を祝賀するためであったが、実際には秀吉が攻めてくるかどうかを見極めることが目的だった。
秀吉に面会して戻ってきた使節団の中で、正使と副使が国王の前で正反対の報告をした。正使が「かならずや攻めてくるでしょう」と所見を述べたのに対し、副使は「秀吉は取るに足らない人物です。攻めては来ません」と断言した。
正使と副使では立場が違う。格上の正使の意見が通りそうなものだが、実際にはそうでなかった。なんと、副使の意見が通ってしまったのだ。
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