敬恵王女が生んだ子は男だった。彼女の元を訪ねた内官は、世祖(セジョ)が「男なら殺せ」と命じたこと、貞熹(チョンヒ)王后が「男なら私のもとに連れてきて」と言ったことを伝えた。熟慮した末に、敬恵王女は生まれた子を貞熹王后のもとに預けた。それが、我が子にとって最良の道だと信じたのだ。
極刑となった夫
本当は、自分の手でずっと育てたかったが、世祖に知られれば我が子は殺されてしまう宿命である。それならば、貞熹王后の言葉を信じてみようと思った。敬恵王女にとっては本当につらい決断だった。
さらなる悲劇が待っていた。外部との接触を禁じられていた鄭悰が、世祖に対抗する勢力と接触していたことが発覚した。
世祖は鄭悰を生かす気持ちがまったくなくなり、彼を陵遲處斬(ヌンチチョチャム)の刑に処した。これは、頭、胴体、手、足を切断する極刑である。敬恵王女は一番むごたらしい形で愛する夫を失った。
同時に、処罰は敬恵王女にも及んだ。陵遲處斬の刑を受けた男の妻は奴婢になる決まりだったのだ。
かくして、かつて王女だった女性がついに奴婢まで身を落としてしまった。
敬恵王女は、恥をさらしてまで生きたくなかった。本来なら、夫のあとを追って自決したかったが、それができない事情があった。すでに敬恵王女のお腹の中では次の生命が宿っていたのである。
それだけに、敬恵王女はなんとしてもお腹の子供を守らなければならなかった。彼女は奴婢として使役を課されそうになったが、そんなときに敢然と言い放った。
「私は王の娘である」
たとえ最下層の身分になっても、精神の気高さは失っていないという意思表示だった。どこまでも自尊心を守り抜くことが敬恵王女の生き方だった。そして、やがて彼女は娘を産んだ。
一方、貞熹王后に預けた敬恵王女の息子はどうなったであろうか。
この息子を貞熹王后は王宮で、女の子の服を着せて育てた。そこまで用心しても、最後まで隠し通せるものではなかった。いつしか、世祖の知るところとなった。観念した貞熹王后は、本当のことを世祖に話した。
意外にも、世祖はその子を膝に抱いて可愛がった。子供に罪はない、という思いが強かったのだろう。長く丈夫に育ってほしいという願いを込めて、世祖は自らその子に眉寿(ミス)という名を付けた。
そればかりか、世祖は敬恵王女の身分を回復して王宮のそばにりっぱな屋敷まで用意した。まさに破格の待遇だが、それを敬恵王女はきっぱりと拒絶して尼になってしまった。ただ、ずっと仏の道につかえる気持ちはなかった。
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文定王后(ムンジョンワンフ)は朝鮮王朝三大悪女よりもっとワルだった!
光海君(クァンヘグン)は仁祖(インジョ)によって暴君にされてしまった!