百済13代王・近肖古王(クンチョゴワン)は、11代王・比流王(ピリュワン)の息子として生まれた。幼いときから聡明だった近肖古王は、父の期待を一身に背負い、346年に王に即位した。彼はいったいどのような王様だったのか?
全盛期を築いた王
近肖古王は、王になってからの30年の間に領土を広げ続け、百済の全盛期を築いた王と言われている。
即位した近肖古王は、周囲の小国を征服することに力を注いだ。それが済むと次は、朝鮮半島南西部、全羅島(チョルラド)一帯にある大小の部族に攻め入り、百済の影響下においた。
近肖古王の指揮の下で、朝鮮半島南西部を手中に収めた百済。次に目指したのは、高句麗が支配する北方の領土への進攻だった。百済と高句麗は何度も小競り合いを繰り返し、まさに一触即発の事態にまで陥った。
396年、高句麗は2万人あまりの軍を率いて、百済との国境へと進軍してきた。報告を受けた近肖古王は、高句麗に気付かれないように軍を派遣して奇襲作戦を行ない、5千人余の高句麗軍を生け捕りにした。
それから2年後の371年には、近肖古王自ら3万の軍を率いて、当時の高句麗の首都だった平壌(ピョンヤン)にまで攻め込んだ。機先を制した百済は、この戦いで高句麗16代王・故国原王(コググォンワン)の命を奪い、朝鮮半島中部にある黄海道(ファンヘド)一帯まで、百済の領土を拡大した。
近肖古王の功績は、領土の面だけにとどまらない。後に朝鮮王朝の都になる漢陽(ハニャン)に首都を移し、整備を行なったほか、外交面では、中国(当時は晋)や日本(倭国)に使者を送り、関係を強化した。倭国の朝廷に贈った「七支刀(チルチド)」は奈良・石上(いそのかみ)神宮に国宝として保管されている。
近肖古王で最盛期を迎えた百済だが、彼の死後、高句麗で即位した広開土大王によって、逆に領土を奪われてしまう。
コラム提供:韓流テスギ