『日本書紀』の記述によると、応神天皇の時代に百済(ペクチェ)から来日したのが王仁(わに)と言われている。日本に「論語」と「千字文」を持ち込んだそうで、これをもって、漢字と儒教を日本に伝えたのが王仁と称されている。
七支刀
王仁は、日本の文化史上に大きな影響をもたらした大人物だが、生没年は不詳で、実在を証明する確証はない。
ただし、王仁の子孫は文筆で業績を残したとされているので、そのような一族が百済から日本に渡来したことは間違いないと思われる。
そもそも、百済の領土は朝鮮半島でも一番肥沃だった。
地図を見れば明らかだが、広い平野が広がっている。山間部が多い高句麗(コグリョ)や新羅(シルラ)の領土とは対照的だ。
農業用地に恵まれた百済は力をつけ、4世紀後半に朝鮮半島の西南岸にまで領土を広げた。
特に、13代王・近肖古王(クンチョゴワン/在位は346~375年)の時代が全盛期だった。
その近肖古王が、372年に使者を日本に派遣してヤマト政権に贈ったのが七支刀(しちしとう)である。
奇妙な形をした刀だ。
刀身が7つの枝に分かれている。
なぜ「7つの枝」なのか。
刀の表と裏には「刀を帯びる者は百の兵を撃退して、王になるほどの霊力を得られる」という文字が刻まれている。
1つの刀で何人もの敵を一度に撃退できる、という意味を込めて、刀身が複雑に枝分かれしているのだろう。
寄贈年の「372」が重要である。
その前年、百済は高句麗への総攻撃を成功させている。それまで軍事的に高句麗に圧迫され続けてきたのに、ようやく形勢を逆転できたのだ。
高揚感に酔った近肖古王は、中国大陸の東晋に使者を派遣して、高句麗に対して軍事的な優位に立ったことを報告している。
その際に、百済は東晋から国家として承認された。
「西の大国のお墨付きを得た。今度は東に目配せをしておこう」
近肖古王はそう考えたかもしれない。
彼は日本に使者を送って、「百済が高句麗を蹴散らして東晋と深い関係を持ったこと」を伝えた。
その際、百済の武力を示すために贈ったのが七支刀だった(現在は奈良県天理市の石上〔いそのかみ〕神宮の社宝となっている)。
まだ見ぬ未知の文物がおびただしく多かった時代である。奇妙な形の刀を贈られたヤマト政権は、百済に対する神秘性を膨らませたかもしれない。この時代は、「神秘性」こそが相手を畏怖する根拠になったと思われる。
近肖古王が世を去って、百済は再び「危機の時代」を迎える。復活した高句麗がおそるべき脅威となったのだ。
391年に17歳で即位した高句麗19代王の名は談徳(タムドク)。死後に「広開土王(クァンゲトワン)」と尊称された王である。
彼は優れた製鉄技術を生かして強い騎馬軍団を作り上げ、百済を真っ先に攻めた。軍事の天才に圧迫されるようになった百済。時代を経るごとに劣勢になっていった。
反対に、高句麗は5世紀前半には東アジアの一大帝国を築いた。
朝鮮半島の歴史でも、史上最大の領土を誇ったのが、広開土王の時代だった。それが今の韓国で広開土王が尊敬される大きな理由だ。
これほどの英雄だが寿命は短かった。
413年に39歳で世を去った。
息子の長寿王(チャンスワン)は、父の偉業を世に残す碑を建てた。現在も中国・吉林省に残っている。
碑に記された廟号は「国岡上広開土境平安好太王」となっている。
朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』が「広開土王」と略称したことから、歴史的にこの名で知られるようになった。しかし、日本では正式名称の最後の3文字である「好太王」のほうがよく知られている。
碑には広開土王の業績が数多く記されており、「国が富み、民が安心して暮らし、五穀が豊かに実った」という礼賛が続く。
さらに興味深いのは、「倭の兵が辛卯年(391年)以来進出してきて、我らの軍と戦った」という主旨の記述があることだ。
この場合の「倭の兵」をどのように解釈したらいいのか。ヤマト政権から派遣された軍勢ではなく、日本から来て伽耶の土地に定住していた人々ではなかったのか。
彼らは人口が多く、伽耶でも一定の勢力を保って近隣地域に進出することもあった。
広開土王の碑文では、亡き王の業績を残す際に、元は外国勢力である「倭」と戦ったことを持ち出すことで、広開土王の偉大さを強調しようとしたのではないか。
つまり、領土拡張を狙って南下した高句麗軍には、異人風の軍勢が印象深かったのだろう。それが碑文の「倭」という文字につながっている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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