朝鮮王朝では国王が絶対的な権力者であったが、実は国王以上に目立っていた王妃が何人もいた。それは、元敬(ウォンギョン)王后、貞熹(チョンヒ)王后、仁粋(インス)大妃、明聖(ミョンソン)王后、純元(スヌォン)王后の5人だった。
朝鮮王朝の女傑5人
◆元敬(ウォンギョン)王后
〔1365~1420年〕
3代王・太宗(テジョン)の正妻。1398年、夫が政変を起こしたとき、政敵の急襲を察知していちはやく夫に知らせたり、武器をあらかじめ調達して夫のクーデターを成功に導いた。夫が王になってからは不仲になり、彼女の親族は謀略によってことごとく厳罰に処されているが、元敬王后は最後まで太宗に強く当たった女傑であった。
◆貞熹(チョンヒ)王后
〔1418~1483年〕
7代王・世祖(セジョ)の正妻。1453年、夫がクーデターを計画したとき、その行動に躊躇があることを見のがさず、迷う夫に鎧を着せて気合で送り出した。クーデターは成功し、夫は王となったが、内助の功が本当に大きかった。時代劇『王女の男』でも最後まで重要な役に設定されていた。
◆仁粋(インス)大妃
〔1437~1504年〕
7代王・世祖(セジョ)の長男・懿敬(ウィギョン)の正妻。懿敬は世子だったので、本来なら王妃になるはずだったが、懿敬が19歳で夭逝したために叶わなかった。しかし、仁粋大妃が産んだ二男が9代王・成宗(ソンジョン)となり、王の母にあたる“大妃”となった。朝鮮王朝の王族女性の中で一番学識があったと評価されており、息子の成宗に指図して様々な政治に関わった。
◆明聖(ミョンソン)王后
〔1642~1683年〕
18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正妻で、19代王・粛宗(スクチョン)の母であった。張禧嬪(チャン・ヒビン)の欲望に気づいて、彼女を王宮から追放したこともある。また、性格が勝ち気で、王朝の最高会議に出て自ら政治を仕切ろうと試みた。1683年、粛宗が原因不明の病にかかったとき、助けたい一心で、真冬にもかかわらず水浴びの苦行を続け、それが元で亡くなった。
◆純元(スヌォン)王后
〔1789~1857年〕
23代王・純祖(スンジョ)の正妻で、『雲が描いた月明り』の主人公イ・ヨンのモデルとなった孝明世子(ヒョミョンセジャ)の実母だった。純元王后は、実家の安東(アンドン)・金(キム)氏が重職を独占する際に重要な役割を果たした。また、25代王・哲宗(チョルチョン)を即位させるために暗躍し、王室の権力をほしいままにした。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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コラム提供:韓流テスギ