【時代劇が面白い】文定王后はどれほど仁宗に冷たかったのか

12代王の仁宗(インジョン)は1545年6月28日に深刻な病状に陥った。診察した侍医は「臓腑(五臓六腑)に損傷ができ、それが病気の元になっていると思われます」と診断結果を述べた。

 

仁宗の病状
内臓の損傷という診断が下された意味は何なのか。毒を盛られた場合にも内臓が損傷することは十分起こりうるだろう。ただ、侍医は解毒の処置は行なっていない。それよりも、調合した薬を仁宗が飲まないことをひどく心配した。
侍医の一人も次のように重臣たちに報告した。
「殿下からお言葉がありました。『どんな熱が余のからだに入ってきて、行ったり来たりしているのか。これは、暑さのせいでこうなったのか』とのことでした。そこで私は『暑さが原因で熱が出たものと思われます。ただ、お薬を召し上がらないと治るきざしがなく、そのことをとても心配しています』と申しました。すると殿下は『わざと飲まないのではなく、とても苦しくて飲めないだけだ』とおっしゃいました」

この時点では仁宗もまだ普通の会話ができたのだが、以後は容態が極度に悪化した。
仁宗の正妻だった仁聖(インソン)王后は心配のあまり、自分の指を切って血を差し出そうとした。彼女なりの“願掛け”のつもりだったのだが、重臣たちは「そういうことをなさっても病状の改善につながりません」と説明して、涙を流しながら仁聖王后の奇行を止めた。

緊張感が極限に達する中で、仁宗は1545年7月1日に世を去った。まだ30歳という若さだったし、在位はわずか8カ月に過ぎなかった。
正史の「朝鮮王朝実録」は仁宗についてこう記している。
「殿下は資質が純粋で、冷静で温厚な方だった。学問にも通じていて孝道も格別だった。世子のときから終日しっかりと腰を落ち着け、言動も適切だった。即位後は政事に尽くし、理にかなった行ないをされた。ある時は御筆で上奏文にお答えになったが、その言葉と意味がとても優れていて、人はみな驚嘆した」

「病が重くなってからは、都の人々が王宮の門の前に次々と集まり、寝ないで徹夜して安否を気づかい、事情がわかりそうな人をつかまえて『殿下の病状はいかがでしょうか』と尋ねていた。亡くなった日には誰もが路上で慟哭(どうこく)して、その嘆きと悲しみはまるで自分の父母を失ったかのようだった」
歴代王27人の中で、仁宗ほど孝に尽くした王はいないと言われている。儒教的価値観でいえば、仁宗は聖君に列せられるほどの存在だった。
しかし、継母の文定(ムンジョン)王后はまるで違う反応を示した。なんと、仁宗の祭祀を信じられないほどに軽視したのである。それが可能になったのは、文定王后が産んだ慶源大君(キョンウォンデグン)が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位したときに11歳だったので、代理で政治を仕切って権勢をほしいままにできたからだ。

文定王后は重臣たちを前に恐ろしいことを言った。
「仁宗は1年も王位にいなかったのだから、今までの慣例を踏襲するわけにはいかないはずだ」
実際、仁宗の葬儀は王位に就いていた人にふさわしくないほど簡略化されてしまった。さらに服喪期間も短縮となり、仁宗の陵墓も格下の扱いとなった。
文定王后はこのように、仁宗を貶(おとし)めたのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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コラム提供:チャレソ

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2020.10.05