「コラム」康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が知るべき歴史3/朝鮮出兵直後編」

豊臣軍による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が終わったのは1598年11月だった。戦乱は終結しても、国土が荒廃した朝鮮王朝の恨みは甚だしかった。日本と朝鮮半島の間で外交を仕切っていた対馬は、朝鮮王朝に対して関係修復を働きかけたが、何度も門前払いにされた。

 

朝鮮王朝にとって好ましい人物

日朝関係の状況が変わったのが1600年9月だった。
日本では豊臣の家臣団が東西に分裂して天下分け目の決戦にもつれこんだ。関ケ原の合戦である。この戦いに勝利したのが東軍の徳川家康で、彼が豊臣家から政権を奪うことが確実となった。

朝鮮半島でも変化があった。戦乱が終わってもしばらく駐留していた明国の軍勢が中国に引き揚げた。再度日本からの襲来があった場合、朝鮮王朝は単独で対処しなければならなくなった。
しかし、そんな心配はいらなかった。朝鮮王朝にとって家康は、仇敵の豊臣家を没落させてくれた人物であった。しかも、家康は朝鮮出兵のときに配下の兵を1人も朝鮮半島に送っていなかった。朝鮮王朝が和平の話し合いを始めるにあたり、家康ほど好ましい相手は他にいなかったと言える。(ページ2に続く)

2017.07.02