「コラム」第14回 康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」

誕生寺の入口

誕生寺の入口

第14回/日延(前編)

 

JR外房線の安房小湊駅で降りると駅前に人影はまばらで、タクシーが列をなして客を待っていた。時期は7月の第2週目であった。あと1週間もすれば子供たちも夏休みとなり、大勢の海水浴客が訪れることだろう。しかし、今は訪れる人も少ない様子だった。

 

日蓮と日延

タクシーに乗り、運転手さんに「誕生寺まで」と告げた。走り出してから、私は「日延(にちえん)さんはここでも有名なんですか」と聞くと、「もちろんです。誕生寺を作った方ですからね」と運転手さんは答えた。

私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)の発音が悪いのか、「日延」が「日蓮(にちれん)」に聞こえたようだ。私は言い直した。

「日蓮さんではなくて、日延さんですけれど。誕生寺の貫主様だった方ですが……」

「その方はまったく知りませんね。聞いたこともありません」

そう言われてしまったので、いささか心細くなってきた。

やがて誕生寺に着いた。タクシーで駅から5分ほどだった。

有名な古刹だけに、門前に土産物店があって、中年の女性が通る人を呼び込んでいた。私はそこには近づかず、ゆっくりと総門をくぐって行った。

 

誕生寺の本堂

誕生寺の本堂

日延の父は臨海君

総門の先には仁王門があったが、それをくぐる前に誕生寺の縁起を書いた案内板を読んだ。そこに書かれてあったのは、「日蓮が1222年に小湊で生まれたこと」「誕生寺は1276年に開かれたが、日蓮を開山としていること」などである。

つまり、日蓮が誕生した地に創建されたのが誕生寺というわけだ。案内板の前で、一人で頷いていた。

ただし、私がここを訪ねたのは、日蓮にゆかりのあるものを見るためではない。この寺の18世の貫主を務めた日延について調べるのが目的だった。

日延は朝鮮半島の出身である。しかも、朝鮮王朝14代王の宣祖(ソンジョ)の孫で、父は宣祖の長男であった。

つまり、血筋のうえでは、朝鮮国王の座に就ける可能性がある人だった。そうした人物が、なにゆえに日本で日蓮宗の僧侶になったのであろうか。

そこには、16世紀末の文禄・慶長の役が関係している。

1592年4月13日に豊臣軍が朝鮮半島に攻め入った。平和が長く続いた朝鮮王朝では、国防の意識が疎かになっており、豊臣軍の攻めに退却を余儀なくされた。早くも、5月2日には首都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)が陥落した。

国王であった宣祖は北に逃れ、最後は最北の義州(ウィジュ)にまで避難せざるを得なかった。こうした混乱のなかで豊臣軍の捕虜になったのが、宣祖の長男であった臨海君(イメグン)である。

 

わずか4歳で日本へ!

宣祖には正妃がいたが、彼女は身体が弱かったために子供を産むことができなかった。そこで、側室から生まれた臨海君が長男として世継ぎ候補の筆頭になっていた。ただし、性格が乱暴だということで評判が良くなかった。

そんな中で1592年に朝鮮半島は豊臣軍に攻められた。臨海君は王の警護兵を募るために地方に赴いたのだが、戦乱の中で加藤清正に捕まり、そのまま幽閉されていた。

北方への撤退を余儀なくされていた朝鮮王朝軍は少しずつ態勢を立て直した。また、各地で蜂起した義兵が活躍し、明からも援軍がやってきた。こうして形勢が逆転し、朝鮮王朝は1593年4月に漢陽を取り戻した。

以後は和議が進められたが、豊臣秀吉はさまざまな条件を出す中で、朝鮮王朝の王子および高官12人を人質として送ることを要求した。その見返りとして、捕らえていた臨海君ともう1人の王子を釈放したのである。

しかし、臨海君の2人の子供は加藤清正に囚われた。それは、6歳の女子と4歳の男子だったが、その男子が後の日延である。おそらく、2人は臨海君の身代わりとして人質になったものと思われる。

臨海君の息子はわずか4歳で1593年に日本に連れてこられ、博多の法性寺で剃髪させられた。さらに、仏法の修行に入り、やがては京都でも学んで日蓮宗の僧侶となった。よほど優秀だったのだろう。一目置かれる存在となり、日延を名乗った。

 

帰国できない事情

日延がなぜ誕生寺に来ることになったのか。「千葉のなかの朝鮮」(編著/千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会)は、次のように説明している。

「誕生寺に残る『龍潜寺過去帳』によると、日延の安房入国は加藤清正と安房の領主里見義康の関係によっているとあります。つまり、誕生寺を参詣した清正の口添えによって、日延は里見領内の誕生寺に入山したというのです。日延の姉は宇喜多氏の重臣に嫁しているので、これもやはり加藤清正の人脈による婚姻と考えても不自然ではありません」

日延は加藤清正によって日本に連れてこられたのだが、まがりなりにも、ときの朝鮮国王の孫である。それなのに、なぜ朝鮮王朝は、終戦後に日延を帰国させるように日本に働きかけなかったのか。

それは、日延の父の臨海君に深刻な問題があったからかもしれない。

というのは、臨海君の素行の悪さは相変わらずだった。しかも、敵の捕虜になってしまったという屈辱は、臨海君を終始苦しめた。彼は酒浸りになり、宮廷の内外で問題を起こした。

宣祖の後継者を臨海君と争ったのは、二男の光海君(クァンヘグン)である。彼も宣祖の側室から生まれているが、日本が侵攻してきたときには指導者の一人として成果をあげていた。こうした能力が認められて光海君は王の後継者として揺るがない評価を得るようになった。

1608年に宣祖が世を去ったとき、後継者問題に関して中国大陸の明も憂慮を表明した。そして、調査のために明は使者を朝鮮王朝に派遣すると通告してきた。この時点で後継者は光海君にほぼ決まっていた。

ただし、光海君を支持する一派は、臨海君が世継ぎ問題で混乱を起こすことを恐れ、明の使節が来る前に臨海君を配流した。さらに、失意の臨海君は1609年に殺害されてしまう。

こうした出来事によって、日延は朝鮮半島に戻ることができなくなったのではないか。父も政権によって殺されているし、帰国すると自分の身が危なくなるのは明らかだった。以後、彼は日本で僧侶として生きていかざるをえなかったのだ。

 

(後編に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/
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2016.08.26